この円安をうまく乗り切るとしたら、もはやタイで働いて、タイ通貨で収入を得るしかない現状なのではないか。

◆28歳で出発した遅咲きバックパッカー

「1年くらい、中国からはじまってタイなど東南アジアをぐるぐる写真を撮りながらバックパッカーをしていた人と出会いました。その人の話を聞いたのがきっかけで海外に興味を持ったんです」
伊藤さんは東京都下の工場で、3日間毎日12時間働いて3日休みというシフトで働いていた。2000年代初頭のバックパッカーは金が尽きるまで旅をして、なくなったら工場などで集中的に働く。伊藤さんはそういった人物に出会ってしまったわけだ。
「その人から海外の話をたくさん聞いて、自分も行ってみようと。出会ったのは21歳ですが、タイに来たのは28歳なんです」
車のローン、ギターの借金など返済地獄にはまっていた。「お金に余裕が本当になくて。そんなこんなで借金がなくなるタイミングが27、8のとき」。そこでやっとタイに向けて出発する。
その際に持っていったものは楽器だ。中3のころに「ゆず」に出会い、ギターを弾きたい衝動に駆られたのが、伊藤さんの音楽のはじまりでもあった。ただ……。
「バックパックと一緒に担いでいったのは沖縄三線です」
伊藤さんは「オリジナリティーを出さないと生き残っていけない」という謎のバックパッカー論を持ち、ギターより沖縄三線ならタイで弾いてる人はいないだろうと考える。そして、弾けもしない沖縄三線はわざわざタイに来る直前に通販で購入した。

「ある意味、28のときから今もずっと旅に出ている状態です」
◆流れに身を任せて今の店で働きはじめる
28歳で初めてパスポートを取って、飛行機に乗るのも初めて。まさかそのときはタイで暮らすことになるとは思ってもいない。
「最初は長くても1年と思っていたのですが、いつの間にかっていう……」
そもそも2011年12月にタイに来て、この『鳥屋 花 バンコク店』で働くことになったのが翌年3月。結局、ぶらぶらしていたのは3、4か月程度だ。
「最初は中華街近くの宿にいました。バックパックの話をしてくれた人から、とりあえずなにも調べないでタイに行っても死にはしないから、そのくらいがおもしろいでしょ、と。それで本当になにも調べずにタイに来ました」
その宿から日本人居住者の多いトンロー通りの辺りまで歩く日もあった。直線距離で8キロ弱、道のりでは10キロを超える。在住者でその距離を歩く人はよほどのウォーキング好きくらいだ。
その後、安宿を1か月くらい点々とし、トンローで月3000バーツちょっとのアパートをみつけた。日割りで100バーツとすると当時300円とか400円。安宿よりもずっと安い。伊藤さんが持ってきた費用は50万円ほど。そのまま1年いるとしたら月4万円、当時1万バーツ前後といったところが生活費。その予算だと月3000バーツはちょうどいいラインだ。たった1か月で立派な沈没組になった。沈没とはバックパッカー用語のひとつで、旅をしてまわらず1か所に居続けてしまうことをいう。
トンロー・エリアは日本人が多いことから日本式居酒屋がたくさんある。アパート近くにもあり、そこのスタッフと仲よくなった伊藤さんは夜な夜な、新しい友人らと一緒に酒を飲む。そんなある日に出会ったタイ人が、この『鳥屋 花』のスタッフだった。この店は伊藤さんがタイに来る前月に開業していた。
「タイ人のオバちゃんだったんですけど、1か月くらい毎日お酒を飲んでいたら、アンタ毎日こんなことしてどうするの? みたいにいわれまして。紹介するからとそのまま連れていかれて、2012年3月からこの店で働くことになりました」
当時の現地社長から「タイ人に紹介されたから、1日300バーツのアルバイト」といわれたが承諾する。今だからいえる話で、本来は不法就労に当たる。ただ、伊藤さん自身は「猿岩石世代なので、これも思い出話として日本に帰ったときにネタにできる」くらいにしか思っていなかった。まだ気持ちは旅行者なので、タイにずっといようという思いもなく、おもしろければそれでよかったのだ。
夜な夜な飲むくらいで、その時点で所持金の目減りはあまりなかった。そのため、当時はまだ簡単に取得できた学生ビザを取って滞在していた。もちろん週に2、3回はタイ語学校に通った。
その後、工場で3勤3休の長時間労働をしていた伊藤さんは体力もあり、なんだかんだこの店にずっといることになる。開業数か月で入店しているので、オープニングスタッフという自認もあり、伊藤さんも店に愛着がわいてきた。そうして2018年のころ、この店そのものが伊藤さんのものとなる。
「当初こそアルバイトでしたが店長にもなって、独立したほうがいいといってくれる人がいたので、2018年7月に日本の社長に店を譲ってもらえないか交渉しました」
そして、バンコク店が今でいうフランチャイズとして自分のものになったのだ。日本の社長も伊藤さんを認めてくれていたのも幸いした。バンコクは日本の居酒屋が乱立していて競争過多。そのため赤字続きで、社長は閉業を考えていたこともあったようで、そこを伊藤さんががんばって立て直したことが大きかったのだ。そうして、ロイヤリティーを払うことでまるっと権利を譲ってもらえたのである。このロイヤリティーも社長はいらないとしたが、伊藤さんが自ら申し出たものだ。

