デート帰り、タクシーの中で「まだ帰りたくない」と23歳女が伝えたら…

デート帰り、タクシーの中で「まだ帰りたくない」と23歳女が伝えたら…

◆これまでのあらすじ

23年間恋人ができたことのない箱入り娘のお嬢様・栞は、会社の先輩の豪に片想い中。何度かデートに行くものの、いつも門限で帰らされてしまうという進展のなさに悩んだ末、深夜までお酒を飲んだあと「部屋に行きたい」と伝えたが…。

▶前回:バレンタインデーが憂鬱。渡したい人もいない、30歳独身女の本音

Vol.15 <栞:目黒の焼肉>


「ねえー、本当に大丈夫なの?私がやるから、栞は少しゆっくりしたら?」

レイカが心配そうに言う。

「私、泊まっていってあげてもいいんだよ?明日は出社そんなに早くないし」

マミも心配そうに言う。

私はそんな2人に笑顔で答える。

「2人とも、心配してくれてありがとう。でも、本当〜に大丈夫だから!」

そうして笑顔のままギュウギュウと2人を玄関まで押しやり、頭を深々と下げてお見送りをする。

「今日は手伝ってくれて、本当にありがとう。来週にはきっと片付いてると思うから、目黒川でお花見しようね」

心配顔のレイカとマミが渋々後にしたのは、私の新しい家だ。

目黒駅から徒歩5分。築8年オートロックつきの1LDKが21万円は、我ながら結構いい物件に巡り会えたのではないかと自画自賛している。

自分で言うのもなんだけれど、これまで一度も実家から出たことがない私にとって、こんな小さな部屋に暮らすのは生まれて初めてのことだ。

でも、さっきまでものすごく狭いと感じていた部屋は、レイカとマミが帰ってしまった今はガランとしてものすごく広く感じる。

「さて…では、洗い物をしますか!」

全くの無音の部屋に慣れず、大きめの独り言で自分を鼓舞しながらキッチンへと向かった。

ちいさなシンクに下げられているのは、大きなお鍋。実家から持ってきたロイヤル コペンハーゲンの大皿。それから、さっき目黒のアトレで買ったばっかりの3つの蕎麦猪口だ。

レイカとマミと、引っ越しを記念してざる蕎麦を食べたのは、夕方の17時半ごろだっただろうか。

今は21時を過ぎているから、ようやく食器を洗う気力が湧いてくるまで、3時間近くかかってしまったことになる。

近くの東急ストアで買ったグローブは信じられないほどゴムくさいし、開封したばかりのスポンジはものすごく固い。

「これは先が思いやられるなぁ」

実家では、洗い物はいつも母か時々来るお手伝いさんのイトウさんがやってくれていたし、食洗機だってあった。ぎこちない手つきと、なぜだかびしゃびしゃになってしまうエプロンには、我ながら呆れるしかない。

けれど、「これからは、全部自分でやるんだ」という強い決意だけが、ここ1ヶ月半の私をがむしゃらに突き動かしていた。

そう。4月を目前にして、季節はすでに春を迎えていた。

豪さんと焼き鳥デートをしたあの夜から、1ヶ月半の月日が経っている。

そして私はその1ヶ月半の間、一瞬たりともあの夜の出来事を忘れたことはない。



あの夜のことはいつだって、まるで昨日のことのようにはっきりと思い出すことができる。

2月の麻布十番。午前1時過ぎの凍りつきそうな路地裏。

そして、白い息と共に交わした、私と豪さんの間だけの秘密の会話。

「あの、豪さん。私…まだ帰りたくないです。豪さんの部屋、連れてってもらえませんか…!」

酔いと深夜の勢いに任せて吐いた取り返しのつかない私の言葉に、豪さんは少し沈黙したあとに言ったのだ。

「…いやいや。さすがに、ご両親に怒られちゃうでしょう。家まで送るから、いい子はちゃんとおうちに帰りなさい」


どんな答えでも、受け入れる覚悟ができていたつもりだった。

だからこそ、自分らしくない方法だと違和感を感じていても、恋する気持ちを全力でぶつけたのだ。

だけど──。

豪さんのその返事を聞いた瞬間、頭の中が沸騰するように熱くなった。

恥ずかしさと、悲しさと、それから惨めさで…気がつけば私は豪さんに、みっともなく言い返してしまうのだった。

「私、子どもじゃないです。バカにしないでください!」

目の前の豪さんは、呆気に取られてしまっている。だけど、私の言葉は止まらなかった。

酔いと深夜の勢いと、それから私がずっと溜め込んできた、コンプレックスのせいだ。

「豪さんが好きなんです。私、いままで一度も恋愛したことがなくて。ずっと素敵な恋に憧れていて…。それでやっと、豪さんのことを好きになったんです。

だから、正解なんて分からなかったけど、一生懸命アプローチしたんです。デートに行きたい!って気持ちだってはっきり伝えたし。それなのに豪さんは、豪さんは、いっつも美味しいお鮨に連れていってくれるだけでぇ〜」

いつのまにか、涙が流れていた。これでは本当に子どもだ。自分で「子どもじゃないです」と啖呵を切っておきながらこんな醜態を晒してしまい、恥ずかしさで消えてしまいたかった。

「す…すみません。忘れてください」

ぐちゃぐちゃな感情と寒さのあまり、涙だけでなく鼻水まで垂れてきそうになってきてしまった私は、バッグから近沢のハンカチを取り出して慌てて顔を隠すと、タクシーを探して逃げ帰ろうとする。

だけど豪さんは、そんな私の肩に手をかけると──ぐっと引き寄せて、優しく抱きしめてくれたのだ。

「栞ちゃん、ごめんね」

「何にごめんねなんですか」

「栞ちゃんがそんなに想ってくれてることに、気づけなかった」

豪さんの腕は、温かいけれど力は強くなく、いつでも抜けられる優しさだ。

心地よさと、突然抱き寄せられた切なさと、胸のドキドキ。

色々な感情が押し寄せてくる中で、だけど一番大きいのは「えっ!?」という驚きだった。

「そんな…私はっきり、デートしてくださいとまで言ったのに」

「いや…あの時はだいぶお酒飲んでたから、悪酔いだったのかなって。もしかしたらとは思ったけど、そのあとは食事に行っても栞ちゃんあんまり飲まなかったし。

美味しいお鮨は一緒に食べたいけど、大人数は苦手ってことかと…」

以降のデートでお酒を控えていたことが、まさか裏目に出るなんて…。一瞬気が遠くなりそうになったけれど、豪さんの言葉はそれだけでは終わらなかった。

「それに…」

「…はい」

「失礼だったらごめん。栞ちゃんの相手は多分、俺じゃないと思うんだ。多分、本当は俺のことそんなに好きじゃないと思うよ」

「え…?」

今度こそ本当に、「バカにしないでください!」と叫びたい気持ちだった。

こんなに豪さんのことが好きなのに。豪さんの他には誰もいないのに。

だけど、私が向こう水な反論を始める前に、豪さんは苦しそうに言葉を続ける。

「本当に好きだったらさ、相手の幸せを尊重したり、夢を本気で応援できると思う。

わかんないけど、俺の思う“好き”って言うのは…そういうことなんだ」

「好きな人の…夢…?」

豪さんの真意が分からず、私は酔いのせいでイマイチ回らない頭を必死でめぐらせる。

そして、あることに思い至るのだった。いつかのお鮨デートで豪さんが言っていたこと…。

『俺、実はさ…ラーメン屋さんやりたいんだよね。会社辞めちゃおっかな、って思ってたり』

それに対して、私はなんて返しただろうか?

もし豪さんがラーメン屋さんになったら?職場の人であれば父も母も交際を認めてくれるかもしれないけれど、会社を辞めてしまったら?土日もきっとないだろうし、夜も出かけたりなんてできない?デートもあんまりできなくなる?

そんな打算ばかりが湧いてきて───必死に、その夢を否定してしまったっけ。


「あ…」

ショックのあまり私は、温かな腕をそっと振り解き、豪さんの顔を見上げる。

だけど見上げた豪さんの顔は───私のことを、全く見ていない。

麻布十番の路地の向こう…いや、もっとずっと向こうのどこか遠くを見つめているのだった。

「豪さん」

「ん?」

「豪さんにはもう、そういう人がいるんですね」

「え…」

最初から、わかっていたような気もする。

初めて豪さんと深夜のお鮨を食べた夜。

「食べるのって、楽しいのになぁ…。女の子って、やっぱり太ることとか気にする子多いよね」

タクシーの中でそう呟いた豪さんは、すごく寂しそうで、それでいて、すごく優しい目をしていた。

太るのを気にする女の子。私の知らないその人が、豪さんの中にはずっといたのだろう。

だって、私と一緒に深夜のグルメを楽しむ時は───豪さんはいつだって、優しい目をしていたから。

「あーあ、失恋だぁ」

「ごめん。ねえ、本当に家まで送らなくて大丈夫なの?」

「大丈夫ですよ。さすがに、フラれたばっかりの相手に送ってもらうのは気まずいですし」

「ごめんって…」

私をタクシーに乗せると、豪さんは窓の外からそう言って何度も謝った。そうはいっても、深刻さはまるでない。今まで緊張していたのが嘘みたいな、打ち解けた会話だ。

「じゃ、豪さん。おやすみなさい。ねえ、絶対その子のところにもう一回行った方がいいですよ!未練タラタラじゃないですか」

「うん…ありがとう。あ、でも栞ちゃん。これだけは言っておくけど」

「なんですか?」

「夜中でも美味しそうにたくさん食べるところ、すごくいいなと思ってたよ。俺、本当に会社やめちゃうけど、ロスまでラーメン食べに来てね」

「…了解です!」

お互いにずっとずっと手を振りながら、タクシーは走り出した。

そのすぐあとに豪さんもタクシーに乗るのが見えて、そのタクシーが虎ノ門とは全然違う方向に向かって発車するところも見えた。

自宅に到着する頃には、時刻は1時半近くになっていたけれど、リビングでは父と母がまんじりともできない様子でまだコーヒーを飲んでいた。

― ねえ、豪さんの恋を応援できた私は、やっぱりちゃんと恋をしていたと思うの。

そう言う代わりに私は、「ただいま」と小さい声で言った。

そうしてそのまま両親がいるリビングの片隅に座って、小さな子どもみたいにシクシクと泣いた。



― 今頃パパとママは、夜のコーヒーを飲んでるかな。

時刻は22時だ。あの夜のことをすっかり思い出し終えた私は、両親と、コーヒーと、そのお茶請けの深夜のクッキーのことを考える。

率直に、寂しさを感じた。

何もかもがそろっていたあの実家に比べて、この部屋にあるのは最低限の家具と、まだ空いていない段ボール箱と、段ボール箱のゴミだけ。

小さな声で「おーい」と誰かを呼んでみたら、タイミングよくお腹が「クゥ〜」と子犬みたいな音で返事をしたのには笑ってしまった。だけど、小腹が空いてもこの家には、夜食を作ってくれる人はいない。

「私、パパとママにどれだけ大切にされてるか分かるし、感謝してる。でも、そろそろ一人前の大人として、ちゃんと自立してみたいの」

あの夜をキッカケに本気でそう両親に頼んで、一人暮らしを許可してもらったのだ。自分で選んだことなのだから、今はこの空腹すら、ほんの少し誇らしく感じる。

「よし」

ふと思い立った私は、出したばかりのDeuxieme Classeの春物コートを羽織ると、玄関を飛び出した。お腹が空いたのだ。

蕎麦猪口もお鍋もすっかり綺麗になって、水切りカゴで次の出番を待ち構えていた。だけど、使えばまた洗い物をしなければならないのは面倒だったし、何か新しいことがしたかった。

22時。門限はもう無い。

向かったのは、目黒駅と家の間にあるのを見て気になっていた焼肉屋さんだった。

『焼肉ぽんが 目黒本店』──23:30までオープンしているというのも、ちゃんとチェックしてある。

― レイカとマミだって、一人焼肉なんてしたことないって言ってたもんね!

1秒でも早く大人になりたくて、お店に向かって夜の目黒を早歩きで進んでいく。

「ひとりです!」

自信満々に立てた人差し指は、たった一本でもまっすぐにピンと伸びた。


― んんー!美味しいー!絶対このお店、美味しいと思ったんだよね。

炙りユッケにウニのせ肉軍艦。新鮮レバーに赤身、イチボ、ミスジ、トモ三角、上ロースが大集合した希少部位5種盛り。どれもこれも黒毛和牛らしいしっかりしたお肉の旨みと脂の甘さが感じられる。

なかでも「たたみネギタン塩」は、たっぷりと載せられたネギの量にまず驚かされ、次いでその食感と味わいのバランスにも驚かされ、自分のお店探しのアンテナの正しさを改めて確信するのだった。

予想していなかったのは、2つだ。

1つは、店内席に入れなかったこと。

もともと人気店で混雑していることは覚悟していたけれど、今の時季はお花見に訪れる人たちで一層混み合っていて、テラス席に座ることになった。

道に面したテラス席にひとりというのは若干心細かったけれど、いざお肉が来てしまえば、美味しさに没頭していて気にならない。その上、今まで感じたことのない春の夜風はとても気持ちよくて、嬉しい誤算と言ってもいいかもしれなかった。

だけど、もう1つは…。

と考え始めた、その時だった。つっかけてきたrepettoのバレエシューズの足先に、くすぐったさを感じる。

「…?」

桜の花びらでも飛んできたのだろうか?と思いながら机の下を覗き込んだ私は、思わず「きゃっ」と驚きの声を上げた。

私のつま先をくすぐっているものの正体は──小さなポメラニアンだったのだ。


「ええ〜、どっから来たの?」

人懐っこく私の膝に飛び乗ったポメラニアンを撫でていると、向こうの席から慌てた様子で駆け寄ってくる人がいた。

ちょうど私と同じくらいの歳だろうか?ハラハラした表情を浮かべ、私に向かって申し訳なさそうにお辞儀をする。

カジュアルなストリートファッションが似合う男性で、どこかで会ったことがある気がするけれど思い出せない。

「すみません!ちょっと目を離した隙に…。おい、クッキー。降りろって」

「クッキー…。この子、クッキーちゃんっていうんですか?」

「あ、はい。すごい、全然降りない。あんまり人に懐かないんだけどな…」

「そうなの?わぁ、嬉しいです」

クッキーを連れ戻すために彼は、味付けなしで注文したお肉で誘惑する。このお店はペット同伴可能で、ワンちゃん用にもお肉を提供してくれるのだそうだ。

だけどクッキーはそんな美味しいお肉の誘惑にも負けず、ちっとも私のそばから離れようとしない。

「クッキー、本当にお前さぁ…。ごめんなさい。こいつまだまだ子どもで、甘えん坊なんです」

彼は困った様子で頭を抱えるものの、その表情にはクッキーに対する深い愛情が滲み出てしまっているのだった。

彼の、クッキーを見つめる愛おしげな顔を見ながら、私はさっきまで考えていたことに立ち戻る。

今夜予想外だった、もう一つのこと。それは──「少し寂しい」ということだった。

「美味しい!」と思っても、その感想を共有する人がいないのは、寂しい。

ウニのせ肉軍艦も、たたみネギタン塩もきっと、誰かと食べたらもっと美味しい。

でも、「1人の方がゆっくり味わえる」と思えたら…それが“大人になった時”なのだろうか。

― 犬でも飼ってみようか。ポメラニアンとか憧れるな。でも、一人暮らしで犬を飼うなんて無責任だよね…。やっぱりまずは、自分ひとりでしっかりしないと。

そんなことをちょうど考えていたその時に、嘘みたいに本当に私のもとにポメラニアンがやってきたのだ。

気がつけば次の瞬間にはもう、言葉は口をついて出てしまっていた。

「あの…おひとりだったら、よかったらご一緒にどうですか?」

そう声をかけることが、今夜は最初から決まっていたように感じられた。

「え?いや、ひとりではあるんですけど…あ、こいつとふたりか」

「あ、そうですよね。おふたりだったら、ぜひ」

「本当にいいんですか?じゃあぜひ…。おいクッキー、よかったなぁ〜!」

そう言って喜ぶ彼を見て、突然答えが分かった。

― あ、どこかで会ったことがあるんじゃない。この人、パパに似てるんだ。

顔の作りではない。ハラハラと心配する顔も、よかったな、と喜ぶ顔も、どこか父に似ていた。そしてその要因は、深い深い愛情にあるということが、唐突に理解できたのだ。

「そっか。私のことが大切だから、一人暮らしも応援してくれたんだ…」

小さく呟いた私に、クッキーと彼は揃って小首を傾げる。

その様子に思わず吹き出してしまいながらも、私は彼に名前を尋ねた。

一人焼肉は失敗に終わったけれど…もしかしたらそれでいいのかもしれない、と思いながら。


▶前回:バレンタインデーが憂鬱。渡したい人もいない、30歳独身女の本音

▶1話目はこちら:細い女性がタイプの彼氏のため、20時以降は何も食べない女。そのルールを破った理由

▶Next:3月2日 月曜更新予定
新しい道を歩き出した栞。そして、豪と市子もまた、新しい道へと進むことに…!

配信元: 東京カレンダー

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