◆あまりの変貌に周囲も困惑していた
これまで、他の現場では金曜日の夜などは、先輩や同僚、協力会社の人と飲みに行くことが多かったのだが、この現場の時は一切飲みにも行かなかったという。「現場の人間関係が悪かったわけでもないんです。なのに、仕事が終わると食材を買いに行くぐらいで、真っ直ぐ家に帰っていました。料理は本来好きではなく、普段なら外食ばかりですが、この10カ月間は毎日自炊していたんです」
後で思い返してみると、当時の自分は「自分ではない」ように思うのだという。
「あの頃の自分は、アパートの部屋に執着していたように思うんです。地元の友人や親からも『お前は変だった』と言われます……。友人が『帰ってこいよ』と話しても『今はダメなんだ』と答え、親に『年末年始ぐらい帰ってこい』と言われても『家から出られない』と言っていたそうなんです」
◆部屋に閉じ込めていた「何か」の正体
篠原さんには、そのような話をした記憶はなかった。家に執着し、ただひたすらに座って過ごしていた自分を客観的に振り返ると不気味で仕方がない。だが、その当時は決して悪い気分ではなかったのだという。「おかしい話ですが、あの部屋に住んでいた頃は、何時間も座っていることが全く苦ではなかった。その部屋を引き払う時も、長く住んでたくさんの思い出がある家と別れるときのような、離れ難い思いがしました。それがかなり強い感情で、たった10カ月なのに、退去の時に涙がこぼれてしまうほどでした」
家を引き払い、アパートの大家に挨拶に行った際に、前に住んでいたのはどんな人だったのか尋ねることにした。
「大家によれば、前の住人は夫婦と幼児ひとりの3人家族。ただ、その子は病弱で、幼稚園にも通えないほどだったそうです。どうして引っ越して行ったのか尋ねましたが、大家は言いたくなさそうで、言葉を濁すばかりで答えませんでした」
その後、篠原さんはさまざまな家に引っ越したが、二度と同じような感情になることはなかった。いまだにあの部屋のことを思い返しては、なんとも言えない気分になるという。
<TEXT/和泉太郎>
【和泉太郎】
込み入った話や怖い体験談を収集しているサラリーマンライター。趣味はドキュメンタリー番組を観ることと仏像フィギュア集め

