
終活において、難しいのは「本人の意思」が「客観的な利益」と矛盾する場合です。周囲がよかれと思って提案する治療や環境改善が、本人にとっては「余計なお世話」であり、尊厳を傷つける行為になることも少なくありません。本記事では、西川満則氏、福村雄一氏、大城京子氏、小島秀樹氏共著の書籍『終活の落とし穴』(日本経済新聞出版)より、肺がんと認知症を抱えた70代男性と、虚弱が進行した80代おひとりさま女性の2つの事例から、終活で本人の意思を尊重する本当の意味について考えます。
説明を数日で忘れてしまうのに、「抗がん剤をやりたい」と言う認知症の夫
肺がんと認知症を抱えた患者が、家族とともに抗がん剤治療を選択する際に、何をもって本人の意思を妥当・適格とするかをめぐる事例です。
認知症も抱える70代の男性で、肺がんでPS1の段階(多少症状があるが、日常生活を送れる段階)にあります。抗がん剤の効果と副作用についての主治医からの説明をおおむね理解され、「じゃあ、その抗がん剤をやってみよう」と言われました。けれども、数日経つと完全に忘れてしまっていて、もう一回説明すると、効果と副作用を理解されて、抗がん剤治療を希望されました。
ここでの問題として、「本当にそれを本人の意思として良いのか」といった意見が医療チーム内から出されました。継続的に抗がん剤治療のリスクを理解できていないから、リスクを伴う抗がん剤のような薬は使用してはいけないので
はないかという意見です。それに対して、途中で記憶が途切れることがあったとしても、本人がいつも同じ判断をしているから、それはやはり本人の意思とするべきではないかといった意見も出ました。結局どちらがよいのか、本人の最善とは何か、に照らして話し合いをしたところ、最終的には本人の意思と捉えて治療しよう、という話になりました。
ところが、「抗がん剤で辛い思いをするのは、私は忍びない、見ていられない」といった妻の思いを本人が聞き、最終的には抗がん剤治療はしないという判断になりました。
この事例のテーマとしては、「本人の意思とは何だろう」ということです。本人は認知症だから判断できないと、安易に決めつけることは断じて避けなくてはなりません。その決めつけが「落とし穴」なのです。「落とし穴」にはまらないようにするには、たとえ本人が言葉を発しない場合でも、目を見て問いかけるようにしましょう。
また、この事例では、家族の感情が穏やかでいられるようにすることも、本人にとっての最善なのだ、と学ぶことができます。時に、家族を大事にする本人の気持ちを利用する家族すらいます。自分が悲しい思いをすることを伝え、
本人の意思決定を変えさせようとするコミュニケーションです。
こうした本人と家族の感情と感情の交差については、よい、悪いといった物差しでは測れません。たとえ、家族に誘導されたとしても、本人が自分で決めて、納得し満足しているのなら、それも、本人の意思の尊重なのかなと思いま
す。
「床ずれが悪化するので、ソファーを捨ててください」訪問看護師の“正しい指導”
次に、「生活の場におけるACP(※)と倫理判断」をめぐる事例を取り上げてみます。私の地域の、あるケアマネジャーさんの戸惑いについて伺った話です。
※Advance Care Planningの略称で、もしものときのために、望む医療やケアについて前もって考え、家族や医療・ケアチームなどと繰り返し話し合い、共有する取り組みのこと。虚弱がとても進行した80代の女性で、口から何とか食べられるものの、とにかく偏食で食が細い方でした。また、後からカギになってくる日常生活動作として、お気に入りのソファーまではなんとか移動できて座れるものの、お尻に
床ずれができているといった状況にありました。
本人の人柄や性格を表すエピソードに触れたいと思います。生涯独身で、2年前に同居していた姉を亡くしました。テレビのリモコンは同じ場所に置かないと気が済まないような几帳面で、少し変わり者、ケアマネジャーにも悪態を
つくけどなぜか憎めないといった評判があります。
ある時、昼間から部屋のブラインドが下りているのを見つけた地域の民生委員が、心配してその方のケアマネジャーのところに来たのですが、ケアマネジャーは、こだわりとして昼間からブラインドを下ろしている方であり、毎日
ケアが入っていてそのことを把握していることも伝えたそうです。また、硬いソファーに座ると褥瘡が悪くなると注意されるので、「わかった、わかった」とその場では言うけど、医療者が帰ってしまうと、普通にそのソファーに座っている。それで、「いつ死んでもいい」が口癖でした。
ある日、訪問看護師AがケアマネジャーBに向かって、「褥瘡が悪くなるから、ソファーを撤去しておいて」と言いました。少し戸惑ったBは、仲間の福祉用具専門相談員Cにこう相談しました。「訪看Aが撤去しろと言うけれど、本人は死んでもいいと言っているし、お姉さんとの思い出が詰まったソファーが落ち着くのではないかなぁ、ソファーはそのままでもいいと思うけど、どう思う?」そこで、Cも「そんなことをしたら、自殺を助けてしまうことになるのではないかしら」と答えました。
この話からの学びとして、日常生活の中にも必ずACPはあるということです。姉を亡くしてからは頑張れない、人生に思い残すことはもうない、病院にはかかりたくない、床ずれはあっても自由にさせてほしい、強制されたくない、知り合い以外と接するのは疲れる。こうした発言を本人の意思の一つとして受け止めて考えることも、一つのACPの立派な形である、そうお伝えしたいと思います。
一般に最善だと思うことが、本人にとっては最善でないことは往々にしてある
もう一つ、日常生活の中にも臨床倫理があると言えます。この例では、床ずれがあってもソファーに座りたいといって、本人はソファー撤去療法を拒否しているわけです。一方で、褥瘡を治すことは医学的に良いという、明らかな医学的な常識があります。しかし、撤去を望まない本人の意思のほうが、医学的な最善よりも優先される。それが基本的な倫理原則なのではないか、と思います。
懸命な読者はもう理解されていると思いますが、医療面であっても、生活面であっても、一般に最善だと思うことが、本人にとっては最善でないことは数多くあります。本人の嫌がる意思決定をしてしまうことは、絶対に陥ってはい
けない「落とし穴」です。肝に銘じておいてください。
以上、事例を提示しました。本人の人生や生活に光をあてることはなかなか難しいけれど、それが重要だと思います。認知症の患者も多いなか、「本人だけで決めるのではなくて皆で決める、でも、本人が中心」。そんな意思決定
のあり方があるのだということを述べました。
