◆サブカルに触れ、東京に出たくなった
そんな忌まわしき中学校を離れ、アメリカで10代のほとんどを過ごすことになったのだが、異国でストレスを抱えずに生きられるはずがない。友達もできなければ、家に帰っても家族しかいない。しかも、英語を話せない。
それなのに、自分よりもあとから来た滞在歴が短い小学生のほうが、現地になじめているのを見ると、また卑屈になってしまう。もっとも、比較する対象が違うのだが……。
ただ、ここで昔の駐在員たちが残して行った日本の書籍に出会う。2010年代なのに『キン肉マン』(集英社)が全巻揃っているマンガという時点で、何十年も前のものばかりなのだが、そこで雑誌「宝島」(宝島社)での人気連載だった、町で見つけた看板の誤植やヘンなものの写真を読者が投稿する「VOW」をまとめた単行本を発見したのだ。今読み返せばコンプライアンスに引っ掛かる表現だらけだし、編集者が投稿者を罵倒している始末だ。まったく世代でもないのに、この時代の雑誌やサブカルチャーに衝撃を受けた。
「こんなデタラメな世界があるのか……。うらやましい」
もともと、文章を書くのは好きで、当時は日記ブログを毎日書いていたため、大学は日本に帰って文章を書いて、もっと本を読みたいと思った。
思うように英語が話せなかったため逃げたわけではなく、能動的に興味があり、得意分野だと思ったから、ここでは卑屈さを感じることはなかった。そもそも、学費が高いのでアメリカの大学に入るという選択肢はなかったし、興味がなかった。それよりも、東京に出たかったのだ。
そして、第1回で書いたが、大学時代は酒に飲まれながらも、本を読み、フリーペーパーを作るサークルで、遅れてきた青春を謳歌した。帰国生入試で大学に入学したため、基礎学力は付いていない。それをカバーするために入学前から、区の図書館で大学で使う参考書や学術書を読み漁った。
◆夢を叶えるも、やる気が空回り
そして、そのまま中高生の頃に思い描いていた「雑誌やサブカルチャーに関わりたい」という夢を実現させるために、社会人1年目から出版社に入って編集者となる。当時は「雑誌の読み放題サービス」が隆盛を誇っており、出版不況とは言われていたが、なんとか雑誌だけは延命していた。今考えると完全に「特需」だった。入社早々、月刊誌に所属されたのだが、編集部員は10人くらい。そして、下っ端だった筆者はいろんな先輩編集者たちの下に付き、小道具や資料集め、文字起こしなど、なんでもやった。
すると、半年後には自分でページも担当するようになった。ゼロから考え出した企画を形にするのは楽しく、メールと名刺さえあれば、どんな人にだって会いに行けた。さらに、自分の知らない世界についての話を聞くことができ、それを文章にする……。これほど面白い仕事はない。
ただ、大学を卒業したばかりの20代前半である。企画力、文章力、編集能力がまったく足りていなかった。そのため、先輩たちが読んでゲラが真っ赤になるほど、赤字で指摘を入れられた。それは、しっかりと読んで指導してくれているという、ありがたいことなのだが、それでも持ち前の卑屈さが出てしまい、だんだんストレスを感じるようになってしまった。
そもそも、斜陽産業と言われている雑誌業界に、自ら入りたくて飛び込んできた若者である。先輩たちは大いに期待してくれたのだが、その思いも圧力に感じてしまうのであった。

