「まさか、他の女性と?」出張帰りの彼の様子がおかしい。疲れているだけと言うが、不安になった女は…

「まさか、他の女性と?」出張帰りの彼の様子がおかしい。疲れているだけと言うが、不安になった女は…

港区・西麻布で密かにウワサになっているBARがある。
その名も“TOUGH COOKIES(タフクッキーズ)”。

女性客しか入れず、看板もない、アクセス方法も明かされていないナゾ多き店だが、その店にたどり着くことができた女性は、“人生を変えることができる”のだという。

タフクッキーとは、“噛めない程かたいクッキー”から、タフな女性という意味がある。

▶前回:離婚の話し合い中の夫婦と、妻の愛する男が、午前3時のホテルのスイートルームに揃ってしまった夜

きつく抱きしめられながら、まるで縋られているようだった。どうしたの?と繰り返してもただ疲れているだけだと大輝は答えたけれど、やはり出勤時間を遅らせるべきだったと、中目黒から日比谷線にのり、広尾の駅を出た今も、ともみは後ろ髪を引かれたままだった。

― あんなに弱ってるのを見るのは、久しぶりかも。

その原因が、キョウコとの執筆合宿にあったことは明らか。帰宅時間も予定より半日ほど遅かったし、脚本が上手くまとまらなかったのだろうか。それとも――。

― キョウコ先生と、何か…。

抱きしめられた時に微かに感じた嗅ぎ慣れない香りはベルガモットかホワイトティーか。ホテルのアメニティを使ったのだろうな、と、ほんの一瞬浮かんだ不安を振り切り、ともみは外苑西通り沿いにあるベーカリーに入った。

西麻布のTOUGH COOKIESへはいつも日比谷線を使い、広尾駅から15分程かけて歩いていた。出勤途中に、店で使うバゲットとルビーのおやつになるパンを購入するためでもあるけれど、夕暮れを迎えた街がライトを灯して夜の準備を始めるこの時間に、この通りをゆっくりと歩くことがともみは好きだった。

香ばしさに包まれた空間で、丁度焼きあがったばかりなんですよ、と馴染みの店員に薦められてしまえば、つい買い過ぎてしまう。途中でミチにも差し入れしようと、ロングバゲットの他に、ホワイトチョコのデニッシュ、発酵バターのクロワッサン・オ・ザマンド、厚切り鴨ローストのバゲットサンドなどを買い込んで、まずはSneetに向かった。

4年以上もの付き合いになると、ミチが甘いものに目がないことも、好物に豪快にかぶりついてほんの少しだけ眉尻を下げる、その表情が「うまい!」を表わすことも知っている。

ミチは開店準備を終わらせたあと、ソファーで仮眠をとっていることもある。そうなら邪魔したくないし、寝ていれば何も言わずにカウンターに置いて行こうと、Sneetの扉をそっと開けたともみは(配達の人が入れるようにとミチは開店1時間前からは鍵を開けっぱなしにする)……自分の間の悪さを嘆くことになった。

ミチが誰かを抱きしめていたからだ。ミチの腕にすっぽりと包み込まれた女性の顔は見えないけれど、あの触り心地の良さそうなフワフワの髪と、魅惑的なボディラインをともみが間違えるわけはない。

― …ルビーだ。

ともみに気づいたミチが、口元で「シーッ」と人差し指を立てた。ミチの胸に顔をうずめたまま、ルビーは何かを話していたけれど、内容はくぐもっていて分からない。

ともみがドキドキと慌てながらも、差し入れの紙袋を持ちあげて、ミチの注意の視線を誘導しながら入口の小さなテーブルに置くと、絶対に音を立てない!と細心の注意を払いながら外に出た。

― 明美さんのこと、とか…話してたのかな。

ルビーの母・明美がTOUGH COOKIESに連れられてきたのは2日前だが、おそらく今日、宮城に戻ったはずだ。「本当はもう少しだけでも東京に残りたいんですけど」と顔を曇らせ、検診のために帰らなければならないと言った明美に、ともみは連絡先を交換することを提案し、ある約束をした。

「今日から私が、明美さんのスパイになります。ルビーが、どんなことで笑って、何を食べて喜んだとか、1週間ごとに知らせます。時々は写真も送れるように頑張りますから」
「…そんなこと……いいんでしょうか?」
「私がそうしたいんですから、いいも悪いも関係ないです」

明美の瞳が大きく見開かれ、みるみる涙が浮かんだ。ありがとうございます、と何度も何度も繰り返し、嗚咽をこらえる明美の様子に、ともみもこみ上げてくるものがあったけれど、グッと堪えた。

「だから、必ず明美さんも返信をくださいね。そして近況を…どんなことをしたとか、病状も隠さず、正確に教えると約束してください。たとえどんなに…」

悪化したとしても――という言葉は口にできずに微笑んだともみに、明美は泣き笑いで頷いた。



「お疲れっさまで~っす!!」

弾むようなハイテンションのルビーが出勤してきたのは、ともみがTOUGH COOKIESに到着してから、わずか15分ほどのことだった。

「すいません、遅くなっちゃって」と、テーブルのキャンドルを並べていたともみに謝ったルビーに、「私が早く来ただけだよ」と確認した腕時計は18時半を指していた。

今日の予約客は、19時45分に来店予定で、準備するには十分すぎるほどの時間がある。


「パン、買ってきたからお客さん来るまえに食べちゃって」

とともみがカウンターに置いた袋を指さすと、ルビーはいそいそと袋を開け、1つ1つ取り出すたびに、「これめちゃ好き♡」「あ、これはもっと好きぃ~♡♡」と、歓声を上げる。

よくもまあ、毎回飽きずに喜んでくれるよね、と思いながら、ともみはハッとして、ポケットから取り出した携帯をルビーの満面の笑みに向けた。遠くからそっと狙ったはずが、シャッター音が思ったより響いてしまい、ルビーが、は?とともみを見る。そのおまぬけな顔も、思わず撮ってしまった。

「なんで今、写真?」
「……な、んとなく?」

「…なんとなく?って人だっけ?」
「…そういう気分の時もあるでしょ」

笑顔を作ったともみに、ルビーが「あ~もしかしてぇ~?」と近づいてくる。

― まさか、バレて、はない、よね?

でも、ルビーはすこぶる勘がいいのだ。もし追及されたら…と、明美との密約をごまかすための言い訳を考えているうちに、ガッと肩を抱かれた。

「アタシの写真が欲しいんだったら、素直に言えばいいのにぃ~」

と、ともみの携帯を奪ったルビーは、ともみの頬にピタリと自分の頬をくっつけ、「はい、おいしい、おいしい、チーズぅ~」と、なぞの掛け声で、2ショットの自撮りをした。呆気にとられたともみに、やりなおし!と笑顔を強制し、さらに連写すると、「うん、いい感じに盛れてるぅ♡」と満足気に、大好物の元へと戻って行った。



19時30分。もう一度店内をチェックし終えたともみは、今日の予約客について確認する。

「清川紗和子、50歳。六本木の老舗ギャラリー、“更紗(さらさ)”の元オーナー」

清川紗和子は、世界中のアート業界に名を轟かせている目利き。彼女に選ばれた作家は、その時に無名であっても、必ず世界的アーティストに成長すると言われ、作品の価値が跳ね上がることが約束されているため、投資家たちの間でも紗和子の動向は常に注目されてきた。

そんな彼女が3週間ほど前に突然、TOUGH COOKIESに電話をしてきたのだ。光江に尋ねたところ、知り合いではあるけれど、店の存在すら伝えていないということで、光江からの紹介ではないことは分かった。

光江が自らTOUGH COOKIESのショップカードを渡したのは、彼女が信頼する経営者たち(クラブやキャバクラ、BARなどを含む)と、Sneetのミチだけだ。ミチも紗和子との面識は1、2度しかないということで、紗和子がどんなルートでTOUGH COOKIESを知り、なぜ訪ねる気になったのか不思議だったが、予約を断る理由にはならなかった。

予約時刻の5分前にインターフォンが鳴り、ルビーがモニターに駆け寄った。お客様が入店される前に…と携帯がマナーモードになっているかを再確認したともみは、20分ほど前に、LINEが2通着信していたことに気づいた。


大輝とミチからだった。来客が迫っていることもあり、大輝の方は営業終わりに見ることにしたが、ミチの場合、店の営業に関わる連絡もあると考えて急いで開いた。すると。

ルビーを抱きしめていたことには一切触れない、差し入れの礼。そして。

『あと、松本公子って人がまた来たぞ。ともみからまだ連絡が来ない、でもどうしても会いたいのだともう一度伝えて欲しいと。イヤな感じもしたし、すぐに帰ってもらったけど、また来ますと言っていた。もし会いたくない人なら、今夜も含めてしばらくSneetには近づかない方がいい。もちろんお前の連絡先は教えていない』

松本公子。ともみが芸能界を辞めるきっかけを作った女性で、数ヶ月前にSneetに突然現れ、ともみに会いたいとミチに名刺を渡した、映像制作会社のプロデューサーだ。

その名を聞けば、体の奥深くが、ずんと重くなる。完璧に磨き上げたはずのバスルーム。そのタイルの隙間に、磨いても磨いてもこびりついたまま離れない、小さな小さな黒ずみの点のように。苦い記憶が消えることはないのだと、何度でも思い知らされる。

いつものミチなら、ともみの心が乱れる可能性を考え、営業前のこのタイミングでの連絡はしない。けれどたぶん、今日はすぐに知らせておいた方がいいと判断した。それほど松本公子の様子がおかしかったのかもしれない。

「ともみさん、エレベーターが到着しました」

ルビーの声にともみはスマホをポケットに滑り込ませて、ワインセラーに映り込んだ自分の姿勢を正す。今はお客様に集中しなければならない。

重い扉がどこか頼りない音を立てて開いた。出迎えたルビーの向こうに現れたその人の、月に照らされた闇夜のような、つややかな黒髪に目を奪われる。日本人形のように切りそろえられた前髪に強調された、凛々しい眉と強いアイラインの引かれた猫のような目。そして深い紅の唇が動いた。

「清川です。今日はお世話になります」

清川紗和子。その動向に世界中が注目する、“アート界のキングメーカー”の登場だった。


▶前回:離婚の話し合い中の夫婦と、妻の愛する男が、午前3時のホテルのスイートルームに揃ってしまった夜

▶1話目はこちら:「割り切った関係でいい」そう思っていたが、別れ際に寂しくなる27歳女の憂鬱

▶NEXT:3月10日 火曜更新予定

配信元: 東京カレンダー

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