不備のない遺言書で〈資産8,000万円〉を母に継がせた息子。銀行窓口で「指一本触れられない」という現実に絶望したワケ【司法書士が解説】

不備のない遺言書で〈資産8,000万円〉を母に継がせた息子。銀行窓口で「指一本触れられない」という現実に絶望したワケ【司法書士が解説】

「全財産を妻に」がリスクな理由【専門家が指摘する“誤算”】

今回のケース、武夫さんの遺言は形式としては完璧でした。しかし、武夫さん亡きあとの「家族のライフプラン」の視点が欠落していました。

「成年後見制度」という重い負担

凍結された資産(預金や不動産)を動かすには、家庭裁判所に申し立てて「成年後見人」を選任するしかありません。しかし、2つの注意点が存在します。

まず、専門家報酬が発生する点です。親族が必ず選ばれるとは限らず、弁護士や司法書士などが選任されるケースもあります。後見人がついているあいだは、月額数万円の報酬がずっと発生し続けます。仮に10年続けば数百万円の出費です。

次に、自宅を売却するハードルの高さです。居住用不動産の処分には、家庭裁判所の許可が必要になります。単に「もう住まないから現金化したい」という理由だけでは認められず、「本人の生活費や施設費を賄うために不可欠である」といった合理的な理由の疎明が求められます。

「二次相続」での税負担増

さらに見逃せないのが税金の問題です。

父から母への相続(一次相続)では、「配偶者の税額軽減」により1億6,000万円まで(または法定相続分相当額のいずれか多い金額まで)は非課税となります。今回のケースだと、8,000万円は全額無税で済みます。

しかし、将来母が亡くなり、息子が相続するとき(二次相続)には、この特例は使えません。父の財産がそのまま母の財産に上乗せされ、基礎控除額も減るため、息子には高額な相続税がのしかかります。

「運命の分かれ道」と解決策

では、どうすればよかったのでしょうか。

武夫さんが遺言を書いたのは5年前。しかし、本当の「運命の分かれ道」は3年前、松子さんが鍋を焦がすボヤ騒ぎを起こし、軽度の認知症と診断されたときでした。

あのとき、武夫さんは「妻を守るのは俺の役目だ」という自負と、「一度作った完璧な遺言があるから大丈夫だ」という過信から、なにも手を打ちませんでした。しかし当時こそ、対策を検討する絶好のタイミングだったのです。

対策①:家族信託(資産管理の切り札)

認知症対策として有効なのが「家族信託」です。

生前、自宅や預金を「信託財産」として敏之さんに託しておく契約です。こうすれば、たとえ父が亡くなり母が認知症になっても、管理権限を持つ敏之さんの判断で、実家の売却や預金の利用をスムーズに行うことができました。

ポイント:「受益権(利益を受ける権利)」は父から母に移しつつ、「管理権(ハンコを押す権限)」だけを息子に渡すことができるため、母の生活を守りながら資産凍結を回避できます。

さらなるメリット:遺言と異なり、「父が亡くなったら母へ、母が亡くなったあとは長男の敏之へ」といったように、数世代先の承継先(受益者連続)まで指定できるため、「家督をどう継がせるか」という想いも確実に実現できました。

対策②:信託銀行の「認知症対応型」金銭信託(次善の策)

もし、武夫さんが「家族信託のような複雑な契約は嫌だ」と拒んだ場合でも、せめて「預金の凍結」だけは防ぐ手だてがありました。信託銀行などが扱っている「認知症対応型」の金銭信託の活用です。

これは、あらかじめ現金を信託銀行に預け入れ、「自分に万が一のことがあったあと、妻の医療費や施設費については、長男が請求書(領収書)と引き換えに、信託銀行から払い戻しや振り込みができる」といった設定をしておくものです。

これを利用していれば、自宅などの不動産対策にはなりませんが、少なくとも「当面の母の介護費用が引き出せない」という最悪の事態だけは回避できたはずです。

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