◆元和偃武(げんなえんぶ)は徳川の元号
一六一五(慶長二十)年七月、改元が行われ、「元和」とされます。元和は唐の元号です。幕府が押し付けた元号で、知識層からは不評でした(久保貴子『近世の朝廷運営』岩田書院、一九九八年、五九~六五頁)。戦国の終わりを「元和偃武」と言いますが、まさに「徳川の元号」です。そう言えば最近も、ことごとく皇室の先例を無視し、「国民の元号だ」と大威張りだった総理大臣がいました。改元寸前の平成三十一(二〇一九)年に『週刊SPA!』で毎週のように批判していた人がいたような気がしますけど、どうしても名前が思い出せん……。く、く、く、くら……。
◆江戸幕府にとって「潰すと面倒臭いから残す」朝廷
それはそうと、一六一六年二月、家康が病気になります。朝廷は家康に見舞いの意味で、太政大臣の位を送ります。しかし、四月に死去。家康の弔いは念入りに行われたのですが、その中で大事な儀式が神号宣下。秀吉が「大明神」だったので、それより格上にと「大権現」とされました。江戸幕府にとって、朝廷は利用価値があるのです。まさに「潰すと面倒臭いから残すので、利用するところだけは利用する」です。
一六一七年、天皇と仲の悪かった父、後陽成上皇が崩御。即位の際に嫌がらせをされて以来、険悪な関係だったのですが、天皇は父に「後陽成院」と追号します。『後陽成天皇実録』第二巻には、「殿下より勧進せらるるを定めて」とのみ記されます。殿下とは後水尾天皇のこと。
こんなことくらいは、天皇の自由になります。後水尾天皇、さらに亡き父をコケにするのですが、それは六十三年も後の話。

