◆さっさと他に妻子をつくっていた後水尾天皇
大御所家康に後陽成上皇と、幕府と朝廷に不幸が続き、将軍・徳川秀忠の娘・和子の入内が先延ばしになっていましたが、一六一八(元和四)年に本格化させます。しかし後水尾天皇は、さっさと他に妻子をつくっていました。妻は通称・およつ御寮人。猪熊事件の猪熊教利の実妹。息子は賀茂宮です。さらに、秀忠が外様大名の福島正則の改易問題で忙殺されていた時に、およつが子ども(女の子で、梅宮)を生んだので大爆発。およつの兄や関係者を追放しています。およつ御寮人事件と呼ばれます。
この時、天皇が「私の不徳の致すところで公家諸法度を押し付けられた。そんなに私が気に入らないなら、私は出家し、弟の誰かに譲位して和子と結婚させればよい」と信尋に送った手紙が残っています。後水尾天皇の譲位願望は本気でしたが、藤堂高虎に恫喝されて断念。「先例を言うなら、武家に逆らって島流しになった天皇もいるぞ」「譲位をするなら、御所で腹を切る」とまで激昂。さすがに天皇に面と向かっては言わなかったですが、摂家衆には「被仰候て、高虎公御退出」だそうで(『藤堂家記』)。要するに、宮中で啖呵を切って出て行きました。藤堂高虎、外様ながら家康・秀忠に譜代の如く信頼されたのですが、こういう汚れ仕事を引き受けたからです。
ちなみに梅宮(文智女王)、後に後水尾上皇や和子の側近になるのですから、世の中わからんものです。
◆天皇の子どもが徳川に「間引かれている」との噂
一六二〇年六月、和子入内が実現。前後して、およつの兄らが赦免されます。すべて幕府の意向通り。ちなみに、朝廷が和子(かずこ)の読み方を「宮中では濁音はよろしくない」などと「まさこ」に改名させる細やかな嫌がらせで抵抗したとの説もありますが、本当かどうかわからないそうです。なぜなら、本当に初名が「かずこ」と読んだかどうか、わからないからだそうで(久保貴子『徳川和子』吉川弘文館、二〇〇八年、七頁)。
ほどなくして、「和子が産んだ子供以外は、徳川の手の者によって間引かれている」との噂が流れます。確かに、およつ御寮人事件以来、側室が産んだ子供はいません。
賀茂宮が四歳で夭折したから信憑性が出たのですが、本当でしょうか。
天皇と和子との子も、七人の内三人が夭折しています。江戸時代は幼児死亡率が高い時代ですから。ただ、「そういう噂が流れた」という事実が大事です。秀忠と後水尾天皇の関係、完全に冷え切っていましたが、角逐の激しさがわかります。

