港区・西麻布で密かにウワサになっているBARがある。
その名も“TOUGH COOKIES(タフクッキーズ)”。
女性客しか入れず、看板もない、アクセス方法も明かされていないナゾ多き店だが、その店にたどり着くことができた女性は、“人生を変えることができる”のだという。
タフクッキーとは、“噛めない程かたいクッキー”から、タフな女性という意味がある。
▶前回:曖昧な関係から恋人に進展した日。絆を深いものにするために、女が彼にしたコトとは
— とりあえず、来てみたが。
BAR・Sneetに出勤する前の14時過ぎ。ミチは、昨夜光江から教わったメグの住所にたどり着いたものの、この先をどうしたものかと、途方に暮れていた。
千駄ヶ谷の商店街から路地を一本入った住宅街。綺麗に保たれているものの、昭和に建てられたと思われるデザインでレンガ色の低層マンション。入口の自動ドアの向こうに管理人室のようなものが見えるが、正々堂々と「柏崎メグさんはお住まいですか」と乗り込んだところで、怪しさは満載、というところだろう。
原宿まで歩いて行ける距離にありながら、将棋会館や鳩森八幡神社、クラシックスタイルの喫茶店…と、古き良き下町の空気を保つこの街では、肩までの長髪を一つに結んだ格闘家のような巨体な上に、目の下に傷のあるミチは明らかに浮いているのだろう。
先ほどから、買い物帰りのおばあさんや、学校帰りの小学生たちの視線を感じ続けていると、ついに声をかけられた。
「すみません、そのマンションに何か御用ですか?」
2人組の警察官がニコニコとミチに近づいてきた。誰かが不審者がいると通報したのだろう。
― まあ、仕方ないよな。
ミチは、その風貌のせいで職質を受けることには慣れている。むしろ手間をかけて申し訳ないと、まだ言われてもいない身分証を出そうとしたとき、「あら、どうしたの~」と、のんびりとした声がして、ミチはその方を振り返った。
その声の主はマンションから出てきたようで、小柄で品の良い恰好をしたおじいさん…だと思ったが、愛想のよい顔には化粧が施されていて、喋り方は女性的だ。「あ、カオルさん、こんにちは」と警察官たちも顔なじみの様子のその人が、ミチににっこりと微笑んだ。
「うちのマンションに何か御用ですか?」
職質中だということを構わないその様子に、「今、僕たちが話を聞いている途中なので…」と、遠慮がちに申し出た年輩の方の警察官を、カオルと呼ばれた老人が、呆れたように制した。
「あなたたち、本当に見る目がないわよ。こんなに素敵な殿方に職務質問なんて」
「い、いや、でも、通報がありましたので我々としても念のため…」
「この人はどう見ても善人ですよ。あとは私が対応するから。ほら、帰った帰った」
なぜ自分が庇われているのかをミチが不思議に思っているうちに、警官たちは追い払われてしまった。
「それでお兄さん、うちのマンションにどういった御用かしら?」
優しい笑みで見上げられ、何と応えれば信用してもらえるだろうかと迷ったものの、ミチはただ正直に事実を伝えることにした。
「ここに住んでいるはずの女性に会いに来ました。急に連絡が途絶えたので心配になって」
「お電話とかメールとかはなさったのかしら?」
「連絡先は知らないんです」
事実ではあるが、連絡先を知らない人を訪ねて来た巨大な男など怪しさしかないだろうなと思いながら説明したミチを、老人は、黙ったまま見定めるように眺めていたが、しばらくして、よし、と続けた。
「私は、このマンションの管理人で、皆さんにはカオルと呼ばれています。あなたのお名前は?」
「鈴鹿(すずか)といいます」
夜の西麻布では使うことのない苗字を名乗ったのはいつぶりだろうか。ミチは警官に見せそこない握ったままだった免許証と、Sneetの名刺をカオルに手渡した。
「鈴鹿、道…これで、みち、って読むんだ。素敵なお名前ね。じゃ、ついておいでなさい」
「え?」
「そこで突っ立ってても、また通報されるだけでしょ?管理人室でお茶でも出してあげるわ」
そう言うと、足早に歩きだしたその小さな後ろ姿を追いかけながら、ミチは思わず、「いいんですか?」と問いかけた。
「何がですか?」
「オレが、ただのストーカーとかだったらどうするんですか?こんなに簡単に中に入れちゃったら」
「だから言ってるでしょう。私はあの若造ポリスたちと違って人を見る目があるの。あなたは絶対に良い人よ。何か困っている事情があるんでしょうよ。それに私にとってもメリットがあるもの」
「メリット?」
そう聞き返した時にはミチはすでに、まるで少女の部屋のように繊細なレースやぬいぐるみで飾られた、4畳ほどの管理人室に迎え入れられてしまっていた。
「メリットでしょうよ。こんなに素敵な殿方とお茶ができる機会なんて、そうそうないもの~。お気に入りの中国茶を入れるから、ほら、座ってちょうだい」
— この人も中国茶を好むのか。
そう言ってポットからお湯を注ぎ始めたカオルに光江の気配を感じながら、カオルとテーブルをはさんで向かい合うと、茶器に注がれたお茶を勧められるままに口に含んだミチは、これは黒レンガ茶だろうと思った。
黒茶と呼ばれる黒い茶葉をレンガ状に固め、数年発酵させて楽しむこともできる高級茶だが、これはおそらく発酵が進んだものだ。
熟成香と共に、ほんのりと古木の香りがたつが渋みは少なく甘みが舌の上で転がる。胃に優しく、油っぽい食事とも相性がいいのだと、光江が好む茶葉の1つでもあった。
「あなたの茶器の持ち方も、飲み方もキレイね。バーテンダーさんだからかしら」
茶の美味にうっかり和んでしまっていたミチに、カオルがうっとりと微笑んだ。
「それで…あなたが会いに来た方のお名前は?ここに住んでることは確かなのよね?」
光江の調べが間違っていたことはない。ミチは自信をもって頷いた。
「柏崎メグです」
「あら、メグなの?」
マンションの大きさからも世帯数がそう多くないことは想像がつく。だから管理人であるカオルが全ての住人を知っていてもおかしくはないが、妙に親しげな“メグ”の響きが気になり、メグとの関係を尋ねると、カオルは「関係だなんて、やだわぁ」と笑った。
「あの子に、このマンションの部屋を貸しているのは私。私は管理人兼、大家さんなの。まあ、親から引き継いだだけだけどね」
おそらく築40年以上は経っているとはいえ、千駄ヶ谷という都心の一等地にあるマンションの資産価値はどれくらいのものだろうか。カオルの品の良さが、裕福な家庭での育ちゆえだという納得と共に、固定資産税が凄そうだなと、ミチはどうでもいいことを考えてしまった。
「メグとは古いんですか?」
「昔ね、あの子の取材に助けてもらったことがあるの。もう10年近く前になるけど。それ以来、お互いにちょいちょい連絡とりあっててね」
10年前といえば、ミチとメグが付き合っていた頃だが、取材で誰かを助けたという話は記憶になく、おそらく聞いたことがない。自分の知らないメグがあの頃にも存在していたのだと、そんな当たり前のことをミチは今更ながら思う。
「メグは…どれくらい前からここに?」
「もうそろそろ2か月になるかな。仕事を辞めて海外から戻ってきたのはいいけど、ほら、無職の一人暮らしだと、なかなか家を借りれないじゃない?それで、私のことを思い出したんじゃないかしら。うちのマンションに住みたくなったらいつでもおいでよって話は、昔からしてたし。でも彼女に頼られたのは今回が初めてよ。
無職になるんだから、家賃はしばらくいらないわよって言ったのに、あの子ったら全額払うってきかなくて。私、メグのそういう律儀なところが好きなのよね。あなたも、でしょう?」
「え?」
「ミチさんも、メグのことが好きなんでしょう?」
茶化すように、でも真っすぐに見つめられたミチは、カオルの視線に光江と同類の力を感じた。
全てを見透かしているような、目の奥の光。年齢や経験値だけでは説明できない包容力をカオルに感じながら、ミチは何も答えなかったが、カオルは気にも留めない様子で続けた。
「あなたみたいにメグを心配して来てくれる人がいてよかったわ。あの子、今、バイトの面接に行ってるんだけど、もうすぐ帰ってくると思うから」
「バイト、ですか?」
「そう。私の幼なじみがもう50年近くやってる店なんだけど。あ、ほら、ウワサをすれば…」
微笑んだまま動いたカオルの視線に、ミチがつられると、管理人室のガラス窓の向こうのロビーに立ちつくすメグと目が合った。
「あなたがなぜここに?」とわかりやすく驚いた表情で、ミチを見つめて固まっていたメグは、しばらくすると、まるで氷がとけだしたかのようにゆっくりと動きだし、ガラス窓を開けた。
「やっぱ、みつかっちゃうか~。でもなんで、カオルさんとお茶してるの?あ、カオルさんこの人、私の元カレ!かっこいいでしょ~」
「あなた、殿方の趣味はいいのねぇ、見直したわよ。メグも中国茶飲んでいく?」
「ん~。今日はいいや。その人と話さなきゃ。ミチ、もうすぐ出勤でしょ?」
時計を見ると15時近くになっていた。Sneetのオープンは18時だが、遅くとも17時には店に戻りたい。「部屋で話そう」とメグに促され、ミチはカオルにお礼を伝えると、管理人室を出た。
最上階の5階。エレベーターを降りてすぐの502号室がメグの部屋だった。
「どうぞ。ちょっと散らかっちゃってるけど」
1DKの部屋は、作りが古いせいか天井が低く、「ミチがいると、この部屋にものすごい圧迫感が出るね」とメグは笑った。
部屋は、言うほど散らかってはいなかった。キッチンやシンクもキレイなもので、そこに酒類の缶などが転がっていなかったことに、ミチはホッとした。
元々ミニマリスト気味のメグが、物を多く持たないことは知っていたが、引越して2か月が経つ割には、家具が極端に少ない。ただ…。
「このベッド、大きすぎるよね。カオルさんが貸してくれたんだ」
おそらくクイーンサイズ以上はある大きなベッドは、カオルの趣味で“17世紀のフランス由来のロココ調”のお姫様ベッドだそうだ。やたらと大きなヘッドボードは、ミントグリーンのベルベッドに、うっすらと花柄が織り込まれている。
「ここ片付けちゃうから、ミチはここに座って」
メグが、「散らかっている」と言ったのは、ベッドの上のことだったのか、テーブルもないこの部屋での作業場と化している様子のベッドには、ノートパソコンと、書類が散乱していた。それらは、大量の新聞や雑誌の記事のコピーで、喫茶店のバイトに必要な物では絶対にない。
― やっぱり。
仕事を辞めたといいながら、メグは調べ続けているのだろう。“行方不明になったリリア”の記事、満面の笑みの少女の写真が脳裏に浮かんできたけれど、ミチは、自分からその話をしようとは思わなかった。
「なんで私の住所がわかったの?って普通なら聞くんだろうけど、驚けないよね。光江さんにかかれば、私のことなんてなんでも調べられちゃうだろうから」
付き合っていた頃、光江は仕事のボスでありながら、自分を育ててくれた人なのだとメグに紹介している。だからメグは光江が“西麻布の女帝”であることを知っているし、政治記者だった当時、光江の人脈で、ある大臣に会わせてもらうという体験もしている。
なんか飲む?と冷蔵庫を開けて、ビールの缶を取り出したメグに、ミチは首を横に振った。
「私は飲んじゃお~」と、缶ビールを開けながら、ベッドに座るミチの側に来ると、メグはその横に少し距離を置いて座った。
ごくごくと勢いよくビールを喉に流し込み、ぷはぁ~とわざとらしい声をあげてから、メグは、少し気まずそうに、あの、さ、と切り出した。
「この前は、ごめん」
「何が」
「ちょっとおかしくなってて…酷いこと言った」
「メグがおかしいのなんて、出会った時から知ってるよ」
メグが小さく笑った。
「ミチは本当に優しいよね。優し過ぎて、私と別れたあと、変な女に引っかかっちゃうんじゃないかって、ずっと心配してたよ。離れてる間も」
「お前以上に変な女はいないから安心しろ」
それは、2人の間で数えきれない程に繰り返されてきた軽口で、いつものメグなら「それでも好きなくせに」とか、笑い飛ばすはずの、お決まりのやり取りだった。
そんないつもとは違い、顔を曇らせ、「確かに私って、ほんと変な女で、最悪な女だよね、ごめん」と、頭を下げたメグに、「どうしたんだよ?」と、ミチが聞いた。
「あの夜…朝、起きたら自己嫌悪で恥ずかしくなって。だから置手紙だけで逃げ出すみたいに帰っちゃったし、その後、ミチにも会いにいけなくなっちゃって。本当に酷いことを言っちゃったから」
「酷いことって…」
「結婚して、って言ったこと。あれは本当にダメだった。ミチが私との結婚を考えてくれてること、わかってた。それを振り切って、ミチを捨てて仕事を選んだくせに…そんな私が、絶対に言っちゃいけない言葉だった。ほんとうに、ほんとうに、ごめんなさい」
そう言うと、メグはベッドの上で抱えた膝の上に顔を伏せ、沈黙がしばらくの間、部屋を包んだ。かけるべき言葉の正解がわからないまま、ミチは溜息をつくと、メグの頬を両手で包み、顔を上げさせてから、言った。
「本当にオレと結婚したいのか?」
「…え?」
「ならいいよ、結婚しよう」
メグの瞳が落ちてしまいそうな程に見開かれた。そして我にかえったように、自分の頬を包んでいたミチの手を振り払うと、驚きのまま慌てた。
「何言ってんの?ダメに決まってるでしょ。ミチが私と結婚するなんて絶対ダメ。今の私なんかじゃ…」
ミチがくっくっ、と声を上げて笑い出す。メグを含めた数人しか知らない、表情を崩した笑い方で。
「…ミチ?」
「ひどいな」
「な、にが…?」
「なんでオレがフラれたみたいになるんだよ。プロポーズしたのはメグなのに」
メグが、はっとした顔になり、そして消え入るような声で、ごめん、と呟く。メグが興奮するといつもミチは頬を包んで落ち着かせてくれた。そのことを思い出したのだろう。
「メグは、今、結婚とか、オレとか、それどころじゃないはずだろ?」
「…ごめん」
「それにオレの前で、“私なんか”なんて、二度と言うなよ」
メグはもう一度、ごめん、と呟くと、恥ずかしそうに、「結局ミチには、かなわないんだよね」と続けた。
「ミチに会うの、もっと平気だと思ってた。でも、ミチの顔みて、ミチのジントニック飲んだらもう——なんか、色々こみ上げてきちゃって、溢れて、爆発しちゃった。
どうかしてたの、あの夜は。本当に、本当に、ごめん」
うなだれたメグの細い肩を思わず抱き寄せそうになった自分を戒めて、ミチは続けた。
「まだまともに、眠れないのか?」
メグの返事はない。けれど、その顔色、細くなった頬や顎のラインが、ミチの問いを肯定している。
帰国した経緯も、仕事を辞めた経緯も、はっきりとメグから聞いたわけではなく、今はまだミチの想像にしか過ぎない。けれどさっきの書類の山はきっと、メグが“諦めてはいない”ことを示している。
『アイツは確かに強くはない。でも最後は絶対に…自分で闘うことを選ぶ女です』
光江に放った自分の言葉を、ミチは思い出す。——ならば自分にできることは。
「合鍵はいつでも使え」
「……え?」
「オレが帰るのは朝方になるけど、いつ来てもいいから。そのまま…うちに住んでもいい」
「…いい、の?」
「飯くらいは作ってやるよ」
その大きな瞳にみるみる涙が浮かぶ。慌ててぬぐうメグから目をそらしながらミチは、「で、早速、腹減らない?」と立ち上がり、冷蔵庫を開けた。
入っていたのは、水とビールと、数個の卵。他には栄養補給のゼリーだけ。これでは何も作れない。ミチは「コンビニに行ってくる」と、財布を持って外に出た。
管理人室から手を振るカオルの前を会釈をしながら通りすぎ、マンションを出ると、4月にしては強い日差しに目がくらんだ。
― オムライスにするか。
メグはミチが作るドライカレーのオムライスが大好きで、食べれば絶対に元気が出るからと、落ち込んだときによくねだられたのだ。
きっと2人とも無邪気だった10年前とは、もう違う。ミチのメグへの想いも、既に恋情と呼べるものではなくなっているのかもしれない。けれど、できるだけのことはしてやりたい。
メグの未来が幸せであるようにと願い続けたその祈りは、いまもしっかりとミチの中にあるのだから。
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▶1話目はこちら:「割り切った関係でいい」そう思っていたが、別れ際に寂しくなる27歳女の憂鬱
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