港区・西麻布で密かにウワサになっているBARがある。
その名も“TOUGH COOKIES(タフクッキーズ)”。
女性客しか入れず、看板もない、アクセス方法も明かされていないナゾ多き店だが、その店にたどり着くことができた女性は、“人生を変えることができる”のだという。
タフクッキーとは、“噛めない程かたいクッキー”から、タフな女性という意味がある。
▶前回:「まさか、他の女性と?」出張帰りの彼の様子がおかしい。疲れているだけと言うが、不安になった女は…
“西麻布の女帝”の店、TOUGH COOKIESにやってきた“アート界の女帝”こと、清川紗和子は、ルビーに促されるまま、カウンターのスツールに腰を下ろした。 眉上で真っすぐに切りそろえられたつややかな黒髪の下で、アイラインで強調された切れ長の目、その視線が、まずともみの手元へ、そして店内の隅々へとゆっくりと這うように動いていく。
「光江さんが、ようやく2店舗目を出したって聞いて気になってたんです。あのババアが女子に寄り添う店を作るとか笑っちゃうけど」
敬語に混じった“ババア”という違和感さえも、まるでフランス語かなにかですか?というような洒脱さを感じさせる清川紗和子に名刺を渡されたともみは、指先からスクエアに1cmほど伸びたネイルに描かれた青い花の名を聞いた。
「朝顔。毎月、爪の花を変えるんです。商売道具の一つですね」
その時注目している新人アーティストに、その月に咲く花をネイルサイズにデザインしてもらい爪に描くのだという。今は7月に入ろうとする今月は朝顔。青とは一言で片づけられない、群青、紫にも見える花弁が、各爪の大きさに合わせてそれぞれデザインされていて、濡れたような、水滴をまとっているようだとともみが言うと、あら鋭い、と紗和子は片方だけ口角を上げた。
「これは朝露に濡れた朝顔です。毎回、日本の和歌とか小説とかをモチーフにデザインにすることに決めてるんですけど、この爪のおかげでどんな“はじめまして”の商談でも、いいスタートがきれるんですよ」
まるで小さな浮世絵。確かにこの爪ならば、お世辞や社交辞令ではなく視線を集めて興味の対象となる。それが売りたいアーティストの作品ならばなお効果的だろうなと、ともみは感心した。
コンサバティブとは程遠い、真っ黒な装いはおそらくコムデギャルソンかヨウジ・ヤマモト。光江から来客情報をもらった時に前勉強として検索した雑誌記事に、紗和子はこの2つのブランドを好むことが書いてあった。
注文を聞く前に、マッカランのストレート、そして氷を別で頼み、守秘義務の書類に素早く目を通してサインした紗和子が呆れたように言った。
「こんなに簡単な守秘義務の契約書で大丈夫なんですか?しかも…客の情報が外に漏れたら、店側が客に1,000万の賠償金を支払うとか書かれてますけど」
「もちろんです。これはお客様に安心してお話して頂くために必要なものですから」
フッと皮肉気な吐息を漏らし、光江さんもとうとうぼけちゃったのかな、と紗和子は、マッカランの氷を鳴らしながらひとなめした。
「では本題に入らせていただきましょうか」
「はい」
「最初に理解して頂きたいのは、私は共感して欲しくてここに来たわけではありません。ましてや裁かれるのなんてまっぴら。だから今から私が話すことに、人として間違ってるとか、道徳的に説くなんてことはしないで頂きたいんです。OK?」
「承知しました」
ともみの微笑みに、紗和子は、では、と呼吸を正すと、まるで舞台のセリフを発声するように言った。
「私はある女性に裏切られて何より大切なものを奪われました。だから復讐、というか、その女(ひと)を抹殺する計画を立てた。その計画を聞いて欲しいんです」
軽やかに放たれた、復讐と抹殺。
「あら。意外とわかりやすい人なんですね、店長さん」
からかう口調に、ともみは驚きを顔に出してしまったことを素直に謝る。
「すみません、子どもっぽくて」
「芸能界で15年も生きてきたのなら、感情を表に出さずにニコニコすることなんて、お手の物のはずじゃないんですか?」
「私も割と得意な方だと思ってたんですけど…」
紗和子が自分の過去を、しかも子役時代の頃から調べ上げてきたようだ、ということにざわめきながらも、ともみは今度こそ顔に出さぬようにと穏やかな笑みを作った。
「この街の皆さまの前では全く役にたたないみたいで。清川さまのような…この街の皆様には簡単に見抜かれてしまうんですよね」
紗和子でいいですよ、と別の会話に流れたことに、動揺はバレなかったのだと、ともみは心で安堵する。
「ちなみに、店長さんは…」
「私も、ともみ、と呼んで頂ければ」
「ともみさんは、誰かに裏切られたことは?」
YUMEの泣き顔が浮かんだ。かつてのアイドルグループの仲間。デビューのために整形を強要され、その結果歌の才能を失い絶望の中で姿を消したYUME。
― 裏切られたのではなく、裏切ったのは私、だ。
「ダンテの神曲をご存じですか?」
紗和子の問いが変わり、苦い記憶から引き戻されたともみが首を横に振る。「神曲って…ダンテさんのイケてる曲ってこと、ですか?」というルビーの斜め上の問いに、紗和子が「いえ」と真面目に姿勢を正した。
「ダンテという人物…14世紀初頭に活躍したフィレンツェの詩人が書いた叙事詩のタイトルが『神曲』というんです。のちに交響曲とかにもなるんですけど、元々は詩、ですね」
詩ってことは、ダンテさんポエマーさんってことかぁと、のんびりとしたルビーの声にこたえるように紗和子は続けた。
「ポエムといっても、壮大に長い詩なので、今風に言うならば小説だと認識してもらっていいと思います。その小説がいくつもの章に分けられているんですけど、その中に、『地獄篇』というチャプターがあるんですけど。
地獄の中でも最も罪の重いいわば重罪人たちが送られる、最下層の地獄として――氷の地獄、という場所があることが描かれているんですよ」
「氷の地獄?ってことは超寒いってこと?地獄って火で燃やされるパターンしかないと思ってた」
紗和子はルビーのため口を気にする様子はなく、一般的にはその認識が多数でしょうね、と同意した。
「でも私は、この氷の地獄の描写に惹かれるんです。物語の中ではその地獄は、コキュートスと呼ばれる場所で、罪人たちは氷に生き埋めにされるんですが。さて、ともみさん」
カウンターの端に立つルビーを見ていた紗和子が、長い首を、まるでバレエのターンのようにくるりとともみに向けた。凛とした雰囲気はその姿勢の良さからも来ているのだと気づいたともみに、「ここでクイズです」と、紗和子はほんの少し口角を上げた。
「氷の地獄行きになる、最も重い罪、とは一体なんでしょう?」
突然のクイズは予想外でも、答えに迷うことはなかった。
「…裏切り、ですか?」
大正解です、と深い赤の唇が今度ははっきりと笑みの形になる。
「身内や…恩人や主人を裏切った者たちが、氷の地獄行きとなるんですが、その中にこんな描写があるんです。“そこでは涙も声も凍ってしまう”と。つまりどんなに苦しくても泣き叫ぶことさえできないわけです。
氷の地獄を生み出したダンテのセンスに私は敬服しています。例えばよくある地獄描写って、炎で焼かれたとしてもその苦しみを叫ぶことはできるし、後悔や謝罪を口にすることもできるわけです。
けれど、氷はすべてを停止させる。全身が完全に閉じ込められ、会話も身動きも一切できない。そんな中で、永遠の孤独という苦しみを与えつづけるのが、氷の地獄なんですよ」
紗和子は、アイスペールから氷を一つ取り出し、マッカランの中に沈めてグラスを弄ぶように揺らした。オールドバカラのクリスタルがカラン、カランと鳴る音が固く響き、ともみも、そして恐らくルビーも――見たこともない氷の地獄に生き埋めにされた裏切りものの末路を想像するはめになった。
「紗和子さんを、裏切った人はどんな人ですか?」
長い沈黙の後、心からの興味でともみは聞いた。全てを奪われたということは、紗和子は、“氷の地獄行の重罪人”に、出し抜かれたということ。アート界を統べた権力者であり、裏切りものは抹殺すると迷いなく言いきる冷徹な女帝を、恐れしらずにも騙し切ったその正体が気になったのだ。
確か女性だと言っていたと思い浮かべた時、もう一度氷が揺れた音と共に、紗和子は言った。
「強烈な才能の持ち主。彼女が望むものは何もかも捧げて、どんなことでもしてあげるべきだと使命感を抱いてしまうほどの。私のアート人生の中でも、あんな才能には数えるほどしか出会ったことはなかった。だからあまり眩しくて…」
今思えば、目がくらんでいたんです、この私が、と、寧ろ懐かしそうに眼を細めた紗和子に見上げられ、ともみは自分の喉が鳴るのを感じた。
「私のコネクションの全てを使い、世界に羽ばたかせた。そして彼女は成功しました」
差し出された携帯の画面に映っていた女性の顔を、ともみも知っていた。後藤麻莉奈(ごとうまりな)。20代半ばながら、つい最近、世界のラグジュアリーブランドがスポンサーにつき、世界中を回る作品展が決まったアーティストだ。
画だけではなく、彫刻も、さらには動画や写真、時には踊る人間などまで、あらゆる美術表現を混ぜた“現代アート”で、その表現の枠に限りを持たないとされ、見るものすべてを芸術にできると評された記事をともみも読んだこともあった。
「彼女に、何を奪われたんですか?」
「…ご存じ、ない?」
紗和子は画面をいくつかスワイプし、新たな記事を出した。そこには幸せそうな麻莉奈と、その横に笑顔の女性が。記事の内容は。
『新進気鋭のアーティスト、後藤麻莉奈がNYで同性婚を発表!お相手は美術館のキュレーター。時代を軽やかに超えていく新時代のカップルにインタビュー』
「後藤麻莉奈の妻になったのは、私の婚約者だった人です。それもつい最近までね。でもそれだけじゃなく…後藤は、私のクライアントたちを取り込み、私のキャリアを壊し始めました。
そんなの絶対に…許せるわけがないでしょう?」
▶前回:「まさか、他の女性と?」出張帰りの彼の様子がおかしい。疲れているだけと言うが、不安になった女は…
▶1話目はこちら:「割り切った関係でいい」そう思っていたが、別れ際に寂しくなる27歳女の憂鬱
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