
研究に没頭し、論文を書き上げても、その学位が「国際的に理解不能な制度」に基づいたものであれば、世界を舞台にしたキャリア形成において大きな足かせとなります。特に医学・科学の分野では、研究者の「質」を保証するグローバル・スタンダードへの準拠が不可欠です。奈良県立医科大学理事長・学長の細井裕司氏の著書『挑戦する人か、文句を言う人か』(日経BP)より、2005年の中央教育審議会答申でも指摘された、 論文博士という日本独特の制度が抱える致命的な欠陥と、学位の国際的価値を取り戻すための抜本的な改革の必要性に迫ります。
その博士号、ホントに世界で通用しますか?
日本には、世界でも珍しい制度があります。それが「論文博士制度」です。大学院の博士課程を修了しなくても、研究業績(主に論文)を提出し、審査に合格すれば博士号を取得できるという仕組みです。学費を払って大学院に通う必要がなく、企業や研究所で働きながら博士号を取得できる点は、申請者にとって大きなメリットでした。
医学界でも一昔前までは、大学院に進学せず、附属病院や関連病院で勤務医として働きながら、また開業医として研究を続け、論文博士を取得する医師が多数派でした。私自身もその一人です。近年は減ってきたとはいえ、奈良医大でも大学院に行かずに博士号取得を目指す医師がいました。大学院には4年間という修了期限がありますが、論文博士には期限がありません。このため大学院に進学せずに博士号取得を目指す医師が多くいました。
しかしながら、日本独特のこの制度は国際的には理解されにくいものです。「Ph.D.です」と自己紹介すると、海外では必ず「どこの大学院を出たのか」と尋ねられます。「大学院には行っていない」と答えれば、相手は目を丸くして驚くでしょう。
2005年9月の中央教育審議会答申「新時代の大学院教育─国際的に魅力ある大学院教育の構築に向けて─」でも、論文博士制度は国際的に通用しにくい日本独特の制度であり、「将来的には廃止を検討すべき」と指摘されていました。つまり、学位の国際的信頼性を確保するためには、見直しが不可欠だったのです。
大学にとっても問題は大きいものでした。論文博士制度が存在することで、大学院博士課程への進学者が減少してしまいます。実際、本学の医学研究科博士課程は2014年度まで定員割れが続いていました。大学院教育の中で学生を育てるという本来の役割を果たすためには、制度の抜本的改革が必要だったのです。
「論文博士制度」の廃止
そこで私は2015年1月、役員会で論文博士制度の廃止を含めた改革を決定しました。
同年6月には「論文博士制度検討ワーキング・グループ」を立ち上げて検討を重ねた結果、2016年4月から論文博士制度の大幅な改正を実施。新制度の申請条件は次の通りです。
●申請論文(筆頭著者に限る)のインパクトファクター(論文掲載年の直近5年平均)が「15」以上
●申請論文以外に、筆頭著者として、インパクトファクターが「1」以上の掲載論文を2編以上有すること
●本学の大学院入学試験に準じて行われる学力試験に合格すること
インパクトファクター(Impact Factor)とは、その学術雑誌の論文がどれだけ引用されているかを示す指標で、雑誌の学術的影響力を数値化したものです。こうして、極めて優れた業績を持つ者しか申請できない仕組みに改め、論文提出だけでは簡単に博士が取得できないようにしました。
その一方で、大学院進学の門戸は広げています。社会人が大学院に進学して博士号を取得しやすくする制度改革を実施しました。
例えば、社会人の大学院長期履修期間を6年から8年に、博士号未取得のまま大学院を満期退学した場合の博士号申請可能期間を2年から4年に延長しました。さらに、「未来への飛躍」基金を活用した大学院の奨学金制度も新設しています。
[図表]医学研究科博士課程 定員充足率の年次推移
2015年の改革直後から医学研究科博士課程に通う学生は100%を超えた
これらの改革の結果、奈良医大の医学研究科博士課程の定員充足率は、2015年度以降、100%を大きく超えるようになりました[図表]。論文博士制度の見直しは、単なる規制強化ではなく、大学院教育を充実させ、国際的に信頼される学位制度を確立するための大切な一歩になりました。
細井 裕司
奈良県立医科大学
理事長・学長
