港区・西麻布で密かにウワサになっているBARがある。
その名も“TOUGH COOKIES(タフクッキーズ)”。
女性客しか入れず、看板もない、アクセス方法も明かされていないナゾ多き店だが、その店にたどり着くことができた女性は、“人生を変えることができる”のだという。
タフクッキーとは、“噛めない程かたいクッキー”から、タフな女性という意味がある。
▶前回:「どうして?」婚約者を信じていた人に奪われ、茫然自失となった女はその後…
「後藤麻莉奈の妻になったのは、私の婚約者だった人です。それもつい最近までね。でもそれだけじゃなく…後藤は、私のキャリアを壊し始めました。それは絶対に――許せるわけがないでしょう?」
寧ろ穏やかと言えるほど淡々と、世界的アーティストである後藤麻莉奈への復讐計画を語り始めた清川紗和子は、マッカランのグラスに彫られた繊細な蔓草(つるくさ)模様を、朝顔の指先でなぞりながら、ほんの少しだけ、その目を細めた。
「ローハン。グビューですね。しかも、1936年以前のオールドバカラ」
ローハンは、創業250年以上になるバカラの歴史の中で、古くから掘られてきた蔓草模様を指し、グビューとは背の低い樽型(バレル・シェイプ)のグラスのこと。
現在まで続く人気モデルだが、1936年以前に作られたものの底面には、今のモデルのような丸い刻印がない。それを見れば、素人でもオールドか現行のものかを見極めることができるのだと、かつて店長のミチから教わったことがあった。
けれど、紗和子はグラスの底など一度も見ていない。
「現行モデルよりも彫りが深い。だから指に吸い付く感じがする。フランス随一と言われた職人集団だからこそできた業(わざ)ですね」
強固なクリスタルとはいえ、削る時に少しでも力加減を誤れば、全体にヒビが入ってしまいますから、と、紗和子の指が、複雑に絡み合うエッジングを愛おしむように滑る。
「魔性、の語源をご存じですか?」
いいえ、と首を横に振ったともみに、紗和子はマッカランを一口含んでから続けた。
「魔とは、サンスクリット語の『マーラ(Māra)』の音を漢字にしたものです。マーラは『殺す者』『妨げる者』という意味で。性は、今と同じく本来の性質を指す。その2つが合わさって、仏教用語として使われるようになった。修行者の心をかき乱し、正しい道から外れさせ、破滅と誘いこむ悪魔。その“魔の性(さが)”を“魔性”と呼ぶようになったんです」
ブッ、キョウ、とルビーがカタカナの響きで呟いた。
「簡単に言うとさ、後藤麻莉奈さんって人が魔性の女だ、って話?」
素直な問い。紗和子がピンと伸びた背筋のまま、まあそうなんですが、と、ルビーの方に体を向けた。
「昨今の皆さんが“魔性”という表現を使う場合、主に性的な魅力や誘惑に長けた人達を指すことが多いでしょうが、本来の魔性というものは、変幻自在に形を変えることができる悪魔の性質のことなんですよ。相手の欲望や、恐れているもの、そして弱点。それらの隙にするりと入り込んできて、弄んだ上で壊す、悪魔のね」
「つまり麻莉奈さんって人が、それ?悪魔の才能がめっちゃあるってこと?」
「才能というよりは、天性ですね、麻莉奈の場合は。ただし本人は至って純粋です。誑かそうとか騙そうとかの計算がないのに、人を無意識で魅了し、破滅させてしまう」
悪魔と純粋。魅了と破滅。
相容れない組み合わせの連続に混乱したのか、首をもげそうなほど傾けたルビーに思わず吹き出しそうになりながら、紗和子のチェイサーをつぎ足す。マッカランの減りが早いのだ。
「私がいた世界にも、一定数いました。魔性…魔力としかいいようのない…そこにいるだけで周囲を魅了してしまう人達が」
ともみの同意に、紗和子が、「人間の外見だって、魔力になり得ますから」とさらりと答える。
「麻莉奈は…作品を作るためなら、モラルや人の道を外れることなど些末事。それが悪だという自覚もないから、罪悪感を持つこともない。自分の才能がどれほど稀有なものなのかということを知っているからです。
でも、私と出会った時にはまだ…彼女は自分の才能に気がついていなかった。それなのに、私が見つけてしまった。だから皮肉ですけど…悪魔として目覚めさせたのは私、なのかもしれませんね」
◆
紗和子が麻莉奈を見つけたのは、ほんの偶然。バルセロナの路上だったという。2人の出会いが3年前だということにともみは驚いた。たった3年で麻莉奈は、作品に何億もの価値が付き、世界中で個展が組まれる有名アーティストになったということなのだから。
けれど、それがアート界の女帝に“見つけられる”ということだと納得もする。紗和子がその日、麻莉奈がいる場所を通りかかったことで起こったサクセスストーリー。その一瞬の出会いの確率を計算すれば、どれほど天文学的な数字になるだろう。
麻莉奈は世界的なIT企業に勤める父の仕事の関係で、幼い頃から海外を点々とする生活を送っていた。けれど、その奔放な性格と衝動的な行動ゆえに学校生活になじめず、実質ホームスクーリングという形で、家庭学習をしていたのだという。
「モンジュイックの丘をご存じですか?バルセロナ市街と地中海を一望できる場所なんですが」
ともみとルビーは同時に首を横に振った。
「ジョアン・ミロ美術館とか、カタルーニャ美術館がある丘で。私はその日も1日買い付けに回っていたのですが、期待外れのものばかりで。気分転換に美術館に行こうと思ったんです。
7月のあの日…海を照らす日の光が見ていられないほどに眩しかったことをよく覚えています。世界は怖いくらいに明るかったのに、私は疲れ果てていました。普段なら美しいと思える丘の坂道の緑にさえ、寂しさを感じてしまうくらいに。
そんなときでした。坂道を下りる途中で、誰かが歌っているのが、ふと、聞こえてきたんです。お世辞にもうまいとはいえない…調子の外れた下手な歌声でした」
「その声は…Font Màgica(フォント・マジカ)――『魔法の泉』を見下ろす、カタルーニャ美術館の脇にある古いテラスからのようでした」
紗和子は懐かしむように、目を細めた。
「魔法の泉の周囲はいつものように、噴水ショーを待つ観光客でごった返していて、浮かれた喧騒が丘の上まで響いてきていました。でも、その石造りのテラスのあたりだけは、まるで真空状態のように、その下手な歌声以外の音が消えたかのようで…私はそちらへ向かいました」
今でもなぜ、歩いて行ってしまったのか…不思議なんですけどね、と紗和子は続けた。
「麻莉奈は今でも華奢ですが…子どもが歌いながら絵を描いている。最初はそう見えました。海外には路上の絵描きがごまんといます。普段なら気にもとめなかったかもしれない。でもなぜかその時は…」
惹きつけられるように近づいた。それが紗和子と麻莉奈との出会いだった。
「一目見て、買い付けのことなどどうでも良くなりました。あの時麻莉奈が描いていた画は、今でも私の寝室に飾ってあります。カタルーニャの民謡、“黒い聖母”を元にした画でした。本来は黒いマリアと言われるカタルーニャの聖母を讃える、厳かな歌のはずなのですが。
当時麻莉奈は18歳でしたが…その若さなど無意味だと言わんばかりに描き殴られたそれは、まるで命の終わりが近付いた老人の独白。壮絶な業に包み込まれたような恐ろしさに、身震いして、立っていられなくなったほどです」
麻莉奈が口ずさんでいた歌こそが、その“黒い聖母”そのものだったらしい。が、そちらは、後の世界的アーティストであっても、全く才能がなかったようだ。
「噴水のショーを待つ大勢の喧騒がどんなに響いてきても、そちらを見向きもしない。彼女は、まるで自分の血をキャンバスに塗りつけているかのような迫力で没頭していた。描くというよりは闘っていたんです」
日本で暮らしたことはないけれど、国籍は日本なのだと聞いた時、これは運命だと紗和子は震えた。その時、麻莉奈が描いていた画を含め、数枚の画を買い取りたいと、すぐに両親の元へ挨拶に行ったという。
「ご両親は、夏のバカンス中でニースにいらっしゃいましたが放任主義のようで。麻莉奈は一人でふらふらとヨーロッパ中を絵描きの旅に出ていたみたいです。私は特定の宗教を持っていませんが、神なのか仏なのか…全能の存在に感謝しました。
聞けば麻莉奈は、私に出会う何年も前から路上で画を売ってきていた。それなのに、誰1人として、この恐ろしい才能に気づかなかったことを」
その後、過去に麻莉奈が作りためた作品を見た紗和子は、彫刻、木工、陶芸、そして写真や動画というデジタルの領域さえ手段を選ばぬ芸術の才能に、さらに歓喜したという。
そして紗和子は、麻莉奈に提案した。自由に作品を作れる資金と環境を提供するから、自分のギャラリーに所属しないかと。
通常、ギャラリーに所属するアーティストとギャラリー側との収入配分は良くて5対5で、紗和子のように制作支援もする場合、ギャラリー側の配分が6や7となる条件でも珍しくない。
それなのに紗和子は、麻莉奈の取り分を7とすることを申し出たという。ずいぶん破格なその提案は、芸能界でのアーティスト契約を知るともみも、聞いたことがない数字だった。
「幸いにも私は既に、もう十分な成功を手にしていたし、金銭的余裕もありました。それにあと数年で50歳を迎えるということも大きかった。これからは今までよりももっと、若いアーティストたちの手助けをしていこうと決めて…そんな時に出会ったのが麻莉奈だったので。
麻莉奈がこの先、悪質なギャラリーや強欲なアートディレクターなどの口車に乗せられて、まるで奴隷のような契約で才能を搾取され、潰されることからも守りたいと思いました。私と契約すれば、麻莉奈は潤沢な資金源を持つことになり、目先の美味しい話に騙されることもなくなりますから。
麻莉奈を圧倒的に成功させる。それが私の使命になりました。麻莉奈が新しい世界を見せてくれることは確信していましたし、期待は膨らむばかりで、私も随分久しぶりに興奮していたと思います。あの時は――麻莉奈の中に、“無邪気な悪魔”が潜んでるなんて想像すらしていませんでしたから」
麻莉奈の両親は、紗和子が名の知られたギャラリストであること、さらにその実績も評判もクリーンであることを調べ上げた上で、ヨーロッパではもう成人であった麻莉奈の意思に委ねた。
まるで自由な渡り鳥のような性質だった麻莉奈は、「紗和子さんについていくの、面白そう!」と二つ返事で所属することを決めた。
そして麻莉奈は、日本へやってきた。日本語は話せるが日本では一度も生活をしたことがなかった麻莉奈を、紗和子はしばらく、自分と恋人が住むマンションの一室に住まわせたという。
「困ったことに、麻莉奈には全く生活能力がなかったんです。本当に作品を作ること以外に興味がないみたいで、没頭すれば倒れるまで食事をせず、それを注意するとコンビニで大量のお菓子やインスタント食品を買い込んできてしまう。
アーティストは体が資本です。健康でなければ作品を作り続けることができない。だからうちで面倒を見ることにして、彼女の食事を私の婚約者が作るようになったんです。うちでの家事分担は、料理上手な彼女が食事係、掃除や洗濯は私、という配分でしたから。
私の婚約者は私の4つ年下でしたけど、私たちにとって、麻莉奈は手のかかる娘のような存在になりました。結婚生活が落ち着いたら、いつの日か子どもをもらい受けたいという夢を話していましたから、その予行練習みたいだねって笑って」
そうして麻莉奈は、公私共に、紗和子の完全バックアップを受け、日本、そして世界中を飛び回り作品作りを続けた。その作品数が一定数になると、紗和子は自分の持てるコネクションを惜しげなく使い、麻莉奈のプロモーションを始めた。
やはり才能には間違いがなかったのだろう。そこに“アート界のキングメーカー”と評される紗和子の手腕が加わり、まさにシンデレラストーリーのごとく、麻莉奈は瞬く間に世界中の注目を集める存在になっていく。
「その時の私は、他の作家さんとの契約をお休みさせてもらって、麻莉奈の売り出しにだけ集中していました。必死でしたよ。まさか…予行練習の…擬似娘に、婚約者を奪われるなんて…想像する暇もないくらいにね」
ともみは先ほど、紗和子の携帯で見た「後藤麻莉奈、NYで同性婚!お相手は美術館のキュレーター」という記事を思い浮かべる。確かアメリカ人女性と書かれていたように思う。
「飼い犬に手を噛まれるとはこのこと…って、麻莉奈は飼い犬ってタイプじゃありませんけど」
フッと微かに口角を上げて黙り込んだ紗和子は、自らグラスに氷を足すと、カラカラとそれを指先で弄んだ。その沈黙をしばらく待ってから、ともみは遠慮がちに先を促した。
「…恋人の裏切りに気づいたのは――いつだったんですか?」
「…もう、1年がたちますね」
記事は、つい最近のものだったはず。ということは。
「気づいていたけれど、黙っていた?」
「黙っていた…とは少し違いますけど、2人を許したんです。表向きはね。復讐計画を完璧にし、実行に移すまでには時間が必要でしたから」
▶前回:「どうして?」婚約者を信じていた人に奪われ、茫然自失となった女はその後…
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