東京を手放さないという選択
現在、池田さんは月の約3分の2を別府で、残りの3分の1を東京で過ごしている。二拠点生活を始めた当初は東京の比重が大きかったが、次第に別府での時間が増えていった。その理由はシンプルで、東京でやるべきことが明確になったからだ。

「別府にいるとき、体感では1日30時間ぐらいある感覚なんです。逆に東京にいると20時間しかないような。別府にいる間は、仕事が終わったあとにカフェに行って本を読もうかなって思えたり、中長期の事業計画をじっくり考えたり。そういうクリエイティブなことは別府にいるときにやるようにしています」
一方の東京では、シェアオフィスでの情報収集や、起業家仲間との交流、ポップアップの出店など、外に出て人に会う時間に充てている。
では、なぜ別府に完全移住しなかったのか。余白を得るだけなら、東京を手放してもよかったのではないか。
「人間って順応する生き物だと思うんです。別府だけで暮らしていたら、その余白が当たり前になって、自分が思っていた自分にはなれていない気がする。東京にいる自分と別府にいる自分、両方を認識できると、じゃあどういう自分になりたいかをデザインできるようになるんですよね」

東京はアートやクリエイティブな友人との刺激、起業家仲間との切磋琢磨がある場所。別府の余白のなかでは得にくいものが、そこにはあるという。
「東京にいるときの私は、かなりせかせかしているみたいで。HAAのメンバーにも『東京にいる佳乃さんはあまり余裕がないから、相談事は別府でします』って言われるくらい(笑)。でも、そのもがいている自分も必要だと思っていて。別府の余白があるからこそ走り続けられる。そのバランスが、この二拠点生活で成り立っているんだなと感じています」
東京を一言で表すなら、「混沌」だと池田さんは言う。情報も人もアテンションも溢れかえる街。そのなかで何を選ぶかの目を養うには、別府のような余白の時間が欠かせない。逆に、別府だけにいたら「このままでいいや」と思ってしまうかもしれないという危機感もある。
別府も東京も必要。どこかひとつの場所が“正解”ではない
二拠点生活を続けてきたなかで、池田さんが強く感じているのは、「場所は固定しなくてもいい」という感覚だという。
「どこかひとつを“正解”にしなくていいと思えるようになったことが大きいかもしれません。別府が好きだけど、東京も必要。どちらかを選ばなくてもいいという状態が、自分にとっては自然なんです」

かつて移住は、「ここで生きていく」と覚悟を決める行為だった。終の住処を探し、人生の拠点を定めること。しかし近年は、「今の自分に合う場所を選ぶ」という行為に近づいているのではないかと池田さんは感じている。池田さんはそれを、読者にこんな言葉で届ける。
「環境って本当に、自分の視点や価値観を変えてくれる後押しになるんです。自分の価値観にフィットする場所はどこかにきっとある。今の自分にマンネリを感じている人がいたら、まずは気になる街に足を運んでみてほしいですね。1カ月だけ住んでみるでもいい。その小さな一歩が、思いもしなかった自分につながっていくと思うから」
池田さんに今後の展望を聞くと「もう少し拠点を広げたい」という答えが返ってきた。ロンドンやベルリンなど海外にも興味があるという。別府で余白を、東京でモチベーションを得る。そこにもうひとつ、未知の要素を加えたとき、自分がまだ見えていない部分に出会えるかもしれない——そんな予感を、池田さんは静かに持ち続けている。

池田 佳乃子(いけだ・かのこ)
ライフスタイルブランド「HAA」代表。大分県別府市出身。東京の大学を卒業後、映画会社や広告代理店を経て、2018年より別府と東京の二拠点生活を開始。2021年に別府の湯治文化を現代に届けるブランド「HAA」を立ち上げる。別府では余白のある時間のなかで事業構想に取り組み、東京では情報収集や起業家仲間との交流を行いながら、ふたつの環境を行き来する暮らしを続けている。
Instagram:https://www.instagram.com/ikekano_/
Web:https://haajapan.com/
