前回の記事では、多貴商運が進めるドローン事業やAIリスキリングといったプロジェクトについて紹介しました。
地方の老舗運送会社がこれほどスピーディーに新しい挑戦を続ける背景には、どのようなリーダーシップがあるのか。中には「カリスマ性を持つ人物」を想像する人も少なくないでしょう。 しかし、当の舵取り役である東出社長は、とてもフラットで謙虚な方です。「若いころは挫折を感じたことも多かった」という東出社長の言葉の端々からは、現場で働く「人」に対する深いリスペクトが滲み出ています。本記事では、が東出社長が歩んできたキャリアと、多貴商運の組織をNativ.media編集部が深掘りします。
「1番になりたい」憧れと挫折。試行錯誤を重ねた青年時代
—— 東出社長は現在50歳、社長に就任されてから約10年になると伺いました。まずは、三重県で過ごされた幼少期のお話からお聞きできますか。
東出: 鈴鹿市の隣の市で育ちました。かなり田舎で、小学校の裏が山だったので、山で槍を投げて飛距離を競うような遊びをしていました。
当時の私は、比較的「何でもしたい」タイプで、保育園の頃から人を引っ張りたい気持ちが強かったんです。登下校でも、できれば自分が先頭でみんなを誘導して歩くべきだ、と考えているような、そんな子供でした。
—— 幼少期はリーダー志向が強かったのですね。
東出: 当時は「なんとなく1番を取りたい」と思っていましたね。
ただ、小学校6年生くらいで、明確な挫折を感じるようになりました。周りの体が大きくなって力で勝てなくなったり、塾に通い出すと勉強面でも頭の差が見えてきたり…。
「努力しても持って生まれたものに勝てないことがある」と痛感したんです。そこから、学生時代や20代のころはいろんなことにチャレンジしましたが、憧れと挫折を繰り返したような時期だったと思います。
—— 大学は関東に出られていますね。どのようなお考えだったのでしょう。
東出: 実はあまり将来のビジョンみたいなものはなく、ただ「関東に出たい」という気持ちが強かったですね。
大学時代もサークルには入らず、卒業後の就職活動もしませんでした。就職したらずっと勤めないといけないというイメージがあり、就活の輪に入るのも違うなと思ってしまったんです。卒業後は1年半ほど、フリーターをしていました。
—— その後は映像編集の会社に入社されたそうですね。
東出: ずっとアルバイトを続けるのも違うと思い、「自分で食っていけることをやりたい」と考えたからです。
たまたまテレビの編集会社の求人を見つけて応募しました。バラエティ番組を編集する部署に配属され、アシスタントとしてテープの掛け替え、文字入れ、スーパー入れなど、地道な作業を4年半ほど続けていました。
30歳で決意した家業への復帰。「全てを背負わない」経営の始まり

—— 映像の世界から、三重に戻り、家業である多貴商運を継ぐに至った経緯を教えてください。
東出:正直なところ、20代の頃は会社を引き継ぐことに対して前向きにはなれませんでした。 父が始めた会社ですし、「自分は自分のやりたいことをやっていきたい」という思いがあったからです。
一方で、だんだん都会での生活も厳しく感じるようになり、満員電車の通勤にも疲れてしまいました。一か所で定着して働くこともできていなかったので、腹を括り、30歳の時に「やってみようかな」と戻ってきました。
—— 戻られてから社長に就任するまでの約10年間は、どのような日々でしたか。
東出: 最初はドライバーの日報管理などの事務処理から入って、周りの社員の顔と名前を覚えるところから始まりました。
社長になったのは、その後10年ぐらい経過した40歳頃です。引き継ぐ時は「まだまだ会社のことを十分に理解できていない中で、自分に務まるのだろうか」という不安が大きかったですね。
ただ、実際に社長に就任した後は、想像以上に大変なことは少なかったように思います。私が引き継いだ時点ですでに、現場には長年勤めてくれている経験豊富なスタッフがいて、必要な人員も揃っていたので、困ることは少なかったんです。周りの人に助けてもらった、恵まれたと思っています。


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