港区・西麻布で密かにウワサになっているBARがある。
その名も“TOUGH COOKIES(タフクッキーズ)”。
女性客しか入れず、看板もない、アクセス方法も明かされていないナゾ多き店だが、その店にたどり着くことができた女性は、“人生を変えることができる”のだという。
タフクッキーとは、“噛めない程かたいクッキー”から、タフな女性という意味がある。
▶前回:「ショックだったけど…」恋人の裏切りを知った後も、女が気づかぬ振りをして一緒に暮らし続けた本当の理由
「…恋人の裏切りに気づいたのは…いつだったんですか?」
「…もう、1年がたちますね」
記事は、つい最近のものだったはず。ということは。
「気づいていたけれど、黙っていた?」
「はい。2人が私を裏切り親密な関係になっても、私は何食わぬ顔をして3人で暮らしていました。完璧な復讐計画を立て、実行に移すまでには時間が必要でした。だったら、知らぬふりをして、あの2人を騙すことが必要だったので」
◆
自分を世界的なアーティストへと育て上げてくれた、アート界の母とも言うべき紗和子の婚約者に、麻莉奈は無邪気に恋をした。そして驚くことに開き直り、欲しくなったのだから仕方がないと、実は紗和子の前でも堂々とアプローチするようになったのだという。
「作品の目利きを外したことはないし、ビジネス相手の次の手だって手に取るようにわかる。なのに…恋人の本質だけは…長い間見誤っていたのかもしれません」
そう言って、紗和子が揺らしたグラスの中で、元々は琥珀色だったマッカランが、氷に浸食され、気の抜けたシャンパンのような色に薄まっている。紗和子は、適した状態の時に飲み干せなかったと詫びながらも、まだ十分に量が残っているというのにきっぱりと、「グラスごと新しくしてください」と言った。
承諾したものの、オールドバカラのグビュの次…紗和子に出し納得してもらうグラスを選ぶことに頭を巡らせ始めた、次のグラスに何を選ぶか、わずかに緊張を覚えたともみに、ルビーが、これは?と屈託なく差し出してきた。
「好きです、そのグラス。ルビーさん、でしたっけ。なぜこのグラスを選んでくれたんですか?」
紗和子に聞かれたルビーが、なんとなく?と、コテンと首を傾げた。「では、なんというグラスなのかも知らずに?」と重ねた紗和子に、ルビーがもちろん、とばかりに大きく頷く。
「これは、サンルイというフランスのクリスタルブランドのもので、トリアノンと呼ばれるモデルです。おそらく1930年代のもので、先ほどのバカラのグビュと同じ年代に作られたものだと思われますが…」
ともみに手を差し出しグラスを受け取った紗和子の指が、グラスの下部に刻まれた無数のダイヤモンドカットをゆっくりと鑑定するように撫ぜていく。
「今とは違う鉛を使っていたことで、今よりクリスタルが強かったんですよ。だから現行のサンルイのグラスよりも、深く模様を彫り、細かく刻むことができていましたし、色味も青みがかって見えるんですよね」
ほら、と光にかざされても、青みは分からなかったのだろう。ルビーが先ほどとは逆側に、またコテンと首を傾げる。
「全ての価値が値段で決まるとはもちろん思っていませんが、先ほどのオールドバカラのグビュよりも、このサンルイのトリアノンが希少なので、グビュより高額で取引されています。
つまり乱暴な言い方をすると、このトリアノンの方が、グビュよりも市場価値が高い。1つ目より2つ目の価値が下がるのは、オークションの世界でも良しとされません。それに…」
眉の位置で切りそろえられた黒髪と、濃紺に見えるアイラインで強調された猫のような紗和子の目が、壁に備え付けられた陳列棚を見渡す。
「私の位置から見える範囲だけでも、この店には新しいものも古いものも沢山のグラスが並んでいる。そんな中から、なんとなくで、このグラスをただ“なんとなく”で選び出せるなんて、それこそがセンスなのだと思います」
「え?褒められてる?褒められてるなら、あざっす!」と大きく笑ったルビーにはもう興味を失くした様子で、紗和子はともみにグラスを返しながら言った。
「ともみさんは、悔しくないのですか?」
「なにが、ですか?」
アイスピールを、数回氷に振り下ろしたところで視線を捉えられ、ともみの手が止まった。
「きっとともみさんは時間をかけて学んだはずです。この店に置かれた、光江さんが選んだグラスのことを一脚、一脚。その歴史と意味、どの酒に、どのような客にはどれが合うのかということもね。でも。センスと直感だけで、ともみさんの努力をやすやすと越えていくルビーさんみたいな人が存在してしまう。
それを悔しく思わないのか、と。ルビーさんのような人をどう思っているのかと聞いているのです」
ともみは、ほんの小さくだけれど、思わず声を漏らして笑ってしまった。その反応が意外だったのか、こちらもほんの少しだけ戸惑いに揺れた紗和子の瞳に、はじめて隙を感じたから。ともみは氷を削りながら答えた。
「もうとっくに諦めています。それはご存じなのではないですか?紗和子さんはおそらく、私の過去を可能な限り調べ上げてここに来られた。
であれば私が、少し容姿が良いだけで芸能界に入ってしまったけれど、天性の才能など持ち合わせていない凡人で、結局業界からも逃げてしまったことを」
なぜ自分を調べ上げてきたのか、その目的は分からないし、詳しく聞くつもりもない。そう思えている自分が、ともみは不思議だった。
「昔は随分、天才と呼ばれる才能を妬み、時には恨んだこともあります。誰より努力したつもりでも報われず、だから努力は報われるとは今だって思えません。でも、もう本当に、どうでもいいんです。というか、そんなこと気にしていられなくなったから」
ほう…と紗和子がまるでお爺さんのように顎に手を当てた相槌を打ち、ではなぜ、と聞いた。
「光江さんに出会って、ついていくだけで必死でしたから。それにこの店を任されてからは余計に…」
そこでともみは、紗和子が、今日初めて、心からの興味を自分に注いでいるような視線を自分に向けていることに驚き、言葉を止めてしまった。
「ともみさん、正直、驚きました。あなたはこちら側の人間なんですね」
「それはどういう意味でしょう」
「歓迎しますよ。あなたが望むかどうかは別にして」
「だから、どういう意味なのか…」
問いを繰り返すともみへの答えを出すつもりはないようで、紗和子は、「訂正と忠告を一つずつ」と、姿勢を正してから続けた。
「1つ訂正しておくと、私が自ら進んでともみさんのことを調べ上げたわけじゃありません」
「じゃあなぜ、調べたんですか?」
「そして忠告です」
「…これも答えてもらえないんですね」
「西麻布の女帝を…光江さんを信じすぎると痛い目にあいますよ。あのババアは決して聖人君子ではないですから」
すっ、と紗和子の瞳に影が差した。
「光江さんが、聖人君子じゃないのはみんな分かってるよねぇ。口は悪いし、反社まがいの脅しも全然するんだし。ねえ、ともみさん」
まあ、うん…と答えたものの、ババアという発音に相変わらずフランス語的で、発言に憎しみが込められているようにも感じられないのが、何とも不思議で。けれど気になるに決まっている。光江を信じるなとは、どういう意図なのか。
ただ質問をしたところで煙に巻かれるだろうと言葉に迷いながら、ともみは2杯目のマッカランを差し出した。するとそれがタイムリミットの合図だと言わんばかりに、「私らしくもなく、余計なことを話し過ぎました」と紗和子は、自分の復讐計画に話しを戻した。
◆
「麻莉奈は、今流行りの“あざとい女子”とやらとは全く違う。何の計算もなく、あなたが好きだ、愛していると伝え続ける。でも最初は私も私の婚約者も、子どもをあやす如くいなしていましたし、全く相手にしていないように見えていました。年齢も20歳くらい離れていましたしね」
相変わらず他人事のような低温の口調で、紗和子は、元婚約者についても淡々と説明した。
紗和子の元婚約者の名は、遠山奏(とうやまかなで)。ボーイッシュな長身の美形だった。海外のオーケストラに所属する指揮者とバイオリニストの父母と共に、海外を点々として育った背景が、麻莉奈の共感を呼んだという。
奏は、ロンドンやニューヨークの美術館でキューレターとして働き、紗和子に出会った。そして付き合い始めて3年後に奏からプロポーズ。遠距離恋愛を続けていたが、婚約と共に日本で暮らしていた家に麻莉奈を住まわせた。
「プロポ―ズをされたのは、今から2年くらい前です。結婚したらニューヨークに移住することを決めていました。日本では同性婚ができませんから。婚約期間の間に、私は自分のギャラリーを…更紗を閉じて、ニューヨークで新たなギャラリーを作る。
奏は婚約期間中、私と離れていたくないと言い、ニューヨークでの仕事を休むという形で来日して私の家に住んでいました。
そこに麻莉奈を住まわせることになったのが、1年半くらい前でした」
紗和子のギャラリーである“更紗”の解体に当初の計画より時間がかかってしまったのは、紗和子がスペインで麻莉奈に出会ってしまったことも影響した。
「人生にもしも、はない。あの時こうしておけば良かったと思うことだけは絶対にしない。そう決めて生きてきたんです。だから今はもう、こうなる運命だったのだと受け入れています。でも」
もしもあの時、自分が麻莉奈を見つけなければ。もしも日本に連れてこなければ。もしも、と悔やんだのは、人生で初めてだったと、紗和子は続けた。
「麻莉奈が恋心を明らかにしたのは、3人での同居を始めて3ヶ月くらい経った頃でした。婚約者はできるだけ私と過ごしたいという人で、私が出張に行くならば、海外でもついて来る。
パーティーにだって一緒に、という人で。業界内では公認カップルでしたし、仕事相手も嫌がることもなかった。彼女も美術界では名の知られた優秀な人でしたからね」
それがある日、と紗和子は視線をともみに上げた。
「私が金沢のギャラリーのレセプションパーティーに呼ばれた日、麻莉奈が高熱で倒れたんです。
麻莉奈は少し日本語が苦手な所もありましたし、放おっておくわけにはいかず、奏が残って世話をすることになりました。その出張が2泊。思えばそこがきっかけになったのかもしれません」
2人の間にその日、何があったのかは未だに分からないけれど、紗和子が持ち上げたグラスの反射が、カウンターにキラキラと落ちる。
「その出張から帰って1週間が経った頃、麻莉奈がアトリエとして使っていた部屋から、夜中大きな叫び声が聞こえて目を覚ましました。隣で眠るはずの奏もいない。
麻莉奈は感情の起伏が激しい子なので、創作の壁にぶつかった麻莉奈を、奏がなだめに行ったのだと思い、私もアトリエに行きました。ドアを開ける前に聞こえてきたのは、英語で喚き散らす麻莉奈を婚約者が抱きしめていました」
そして。状況が飲み込めずにいた紗和子に気づいた麻莉奈が、麻莉奈の婚約者に抱きついたまま、ぐしゃぐしゃの、子どものような泣き顔で言ったという。
『奏さんが好き。愛してる。ねえお願い紗和子さん、私に奏さんをちょうだい。そしたらもっともっといい作品が作れて、紗和子さんのこともハッピーにできるよ。ね、お願いだから…!』
「おもちゃの貸し借りじゃないんだから」と、呆れた様子で呟いたルビーに、紗和子が、だから最初は私も本気にしていなかったんですよ、と続けた。
「でもその翌日、麻莉奈は私に、譲ってくれないなら、正々堂々アピールして、奪い取るね、と宣言したんです。そこからはとにかく好きだ好きだと無邪気に。そうなるともう一緒に暮らせないので、麻莉奈に別の部屋を借りて家から出したんですけど。
アトリエだけは今までの…私の自宅のアトリエを使っていいと許していました。大きな仕事の締め切りも迫ってましたし、描くことを制御することは私にとっても困る。アトリエの場所を変えると彼女が描けなくなるのを知っていたので、麻莉奈がアトリエにこもる時には、婚約者には外出してもらって。
でも麻莉奈は――性にも奔放なタイプだったので…」
「まさか寝取られ!?」と食い気味に叫んだルビーに、どうなんでしょうね、と紗和子は空を見上げた。かすかな雨音と共に、天窓に水滴が落ち始めている。
「私は恋愛にだけはとても疎い自覚があります。だから婚約者の心がいつ麻莉奈にうつっていたのか、何食わぬ顔でいつから私を騙していたのか、正確な時期は今でも分かりません。でも押しに弱く、情にほだされやすい人ではありましたから」
彼女の裏切りを知ったのは、今から丁度1年くらい前です、と紗和子は携帯画面を触ると、カウンターの上に写真を出した。
「…これは、スクショですか?」
衝撃の光景が切り取られた写真に、ともみの質問は遠慮を帯びた。
「はい、麻莉奈がプライベートのアカウントで、夜中にストーリーに上げたものだそうです。すぐに削除されたみたいで、私は見ていなかったのですが、私のアシスタントが、言いにくそうに私に報告してきました。
夜中にポストされていたものを、慌ててスクショしたのだけれど、これは紗和子さんが知っていて許していることなんですか、と。それがこれです」
それは麻莉奈と紗和子の婚約者がキスをしている写真だった。婚約者…奏の顔はピントがあっておらずぼやけていたものの、見る人がみればすぐに紗和子の婚約者だと分かっただろう。そこに書かれていたテキストは。
『真実の愛は必ず実る。愛してる、私の運命の人。永遠のインスピレーション』
英語で書かれたその文字を、紗和子の朝顔がひっかくように撫ぜた。よく見ればほんの少しだけ、その爪先が欠けてしまっている。
「おそらく、奏がすぐに気づいたのでしょう。慌てて削除したみたいなんですが、麻莉奈のアカウントは、世間には鍵付きとはいえ、私の仕事関係の友人たちともつながっていましたから。あっという間に業界内には広まり、私は、婚約者を奪われた可哀そうな女、になったわけです」
でもなんでそんなことを?と素直な疑問をともみはぶつける。
「紗和子さんとも、そのインスタは繋がってたんですよね。わざわざ見せつけたかったということですか?奪い取るために?」
ふふ、と今日初めて紗和子は声に出して笑った。
「それが、後から分かったことなんですが、奏…私の元婚約者が、私には自分から話すから待って欲しいと、麻莉奈を待たせていたらしいんです。麻莉奈は必死でこらえていたらしいんですが、あの夜、2人は口論になり、麻莉奈の我慢が爆発してしまった。もう私にばらしてやる!と勢いで投稿してしまったみたいです」
「それってさぁ、立派な嫌がらせじゃん。全然無邪気じゃなくない?その子」
ルビーの言うことは最もだと、ともみも同意したが、いえ、と紗和子は否定した。
「麻莉奈は今も、私のことも家族として大好きで、自分の恩人だと言い続けていますし、本気だと思います。ただ本当に、恩人の婚約者を愛してしまっただけ。欲望に忠実なだけ。衝動に従うだけ。この、一般社会では許されないはずの、だけ、が麻莉奈ほどの天才なら許されてしまう。
その証拠に、SNSのスクショが出回り、略奪愛の主人公になってからも、麻莉奈は驚くほどバッシングを受けませんでした。あの才能なら、常識から外れていても当然。むしろだからこそ、彼女は怪物級のアーティストなのだと。元々恋愛や性を奔放に語り、それを作品に投影するスタイルでしたし、道ならぬ恋をした麻莉奈が、どんな作品を生むのか楽しみだと、ファンたちは盛り上がっていました。
そしてしばらくすると、火の粉は…私の方へ流れ始めたのです。思い合う恋人たちにしがみつく性悪な女、かわいそうな女と噂され続けて…」
だから私も、腹を決めました、といっそう低くなった紗和子の声に、音もたてずに全てを凍らせ、叫び声さえ奪う氷の地獄を否応なしに連想してしまう。
「そんなのルール違反ですよ。だから私は、あの2人を地獄に堕とすことにしたんです。まずは麻莉奈の…どこまでも飛んでいける才能という翼をもぎ取らせてもらう。そのために一番有効な方法は、何だと思いますか?」
「…わかりません」
「麻莉奈の作品を、平凡でありきたりな、量産品にすること。天才は、平凡だという烙印を押されることを何より嫌い、絶望するものですから」
▶前回:「ショックだったけど…」恋人の裏切りを知った後も、女が気づかぬ振りをして一緒に暮らし続けた本当の理由
▶1話目はこちら:「割り切った関係でいい」そう思っていたが、別れ際に寂しくなる27歳女の憂鬱
▶NEXT:3月31日 火曜更新予定

