◆言葉の端々ににじみ出る「してやったり感」の浅ましさ
この“してやったり”感が、言葉の端々からにじみ出ている。高市総理を叩ける機会を、ヨダレをたらして待ち構えていた様子が、一言一句にあらわれている。その浅ましさ、恥ずかしさが、痛いのです。ほらサナエ。
— 有馬哲夫 (@TetsuoArima) March 21, 2026
今すぐイランへ飛んで、床に額なすりつけて、これまでの非礼を詫びて、日本のタンカーを通すようお願いしろ。
抱きついても、尻尾振っても構わない。
なりふりかまってる場合ではない。
日本経済と国民生活守るため、はたらいて、はたらいて、はたらいて、はたらき抜け。… https://t.co/DkGei1Kr5f
人間ですから、好き嫌いや考え方の違いがあるのは当たり前です。けれども、その当たり前に甘える形で、相手を奈落の底に叩き落とす表面的な言葉を嬉々としてつづってしまう。ただし、そこにあるのは、有馬氏と高市総理の対立関係だけであり、第三者の目という緊張が欠けています。
そこに無自覚であるという点で、有馬氏は間違ってしまったのです。
そこで次の問題です。なぜ客観性を欠いた品のない言葉を使うことに無自覚でいられるのでしょうか?
それは、正しい側にいるのは常に自分である、という無根拠な前提を信じているからです。
◆「正義は悪に何を言ってもいい」というナイーブな確信
今回の有馬氏の一件から、京都精華大学准教授の白井聡氏による、ユーミン罵倒発言を思い出しました。2020年8月28日に、病気を理由に辞意を表明した安倍晋三総理(当時)について、松任谷由実が自身のラジオ番組で「見ていて泣いちゃった。切なくて」と語ったことに対して、白井氏は自身のXでこう投稿したのです。
<荒井由実のまま夭折すべきだったね。本当に、醜態をさらすより、早く死んだほうがいい>
当然ながら、大炎上し、白井氏は投稿を削除することになりました。
有馬氏の「床に額なすりつけて」と白井氏の「早く死んだほうがいい」は、驚くほど似ています。それは、普通の感覚なら他人に対して軽々しく使えない言葉を、並々ならぬ確信をもって使用している点です。
それを可能にしているものが、正義は悪に対して何を言ってもかまわないというナイーブさなのです。

