◆席を立った瞬間“スタスタ”と改札へ

その動きは、先ほどまで「苦しい」と訴えていた人とは思えないほど足取りが軽かったようだ。
「そのとき、もしかして“男性は体調が悪いわけではなかったのではないか”と勘繰ってしまいました。ただ席に座りたかっただけなのかもしれないと……」
しかし、近田さんが一番驚いたのは周囲の反応だった。
「車内にいた人は、誰一人として、男性を助けようとしませんでした。妊婦である私が席を譲るのを見ても、まるで他人事のようでした」
近田さんは産休間近だったため、「妊婦だと一目でわかったはずだ」と振り返る。さらに、“マタニティマーク”もつけていたのだ。
「私は、ただただムカつきました。周りの人が見て見ぬフリをしたことに対して、憤りしかなかったですね」
男性が降り、扉が閉まった後、近田さんは再び吊革をつかんだ。お腹の張りを感じながらも、ゆっくりと深呼吸をするしかなかったという。
電車では個人のマナーが大いに問われる。だが、不快に感じても声をあげにくい空気があるのは事実だ。自分の何気ない行動が周囲の迷惑になっていないか、あらためて意識する必要があるだろう。
◆■ 数字が語る「マナー問題」と私たちができること
今回紹介したエピソードのように、一時の感情や身勝手な理由で、立場の弱い人を追い詰めてしまう。そんな車内の光景は、今の時代、決して他人事ではありません。1. あらためて知っておきたい「マタニティマーク」の意味
厚生労働省が推進するマタニティマークは、外見からは判別しにくい妊娠初期の方も含め、周囲が思いやりを示しやすくするためのものです。
しかし、厚生労働省の検討会報告書や東京都の施策資料等でも、当事者から「マークを付けていると嫌がらせを受けた」「舌打ちをされた」といった声が課題として報告されています。本来、安心を与えるためのシンボルが、時にトラブルを招く不安要素になっているという悲しい実態があるのです。
2. 誰もが「誰かの優しさ」を必要とする場所
今回のエピソードで、妊婦に足を引っかけた女性が語った「中絶の痛み」。その悲しみ自体は否定されるべきではありませんが、それを赤の他人にぶつける行為は、結果的に自分自身の心をさらに深く傷つける「自業自得」な結末を招いてしまいました。
また、困っている人を前に「見て見ぬふり」をしてしまう空気も、私たちの心を殺伐とさせる要因の一つです。
「自分も疲れているから」「関わると面倒だから」……。そんな心の壁を、ほんの少しの想像力で取り払うことができれば、電車内はもっと呼吸のしやすい場所になるはずです。
すべてをルールで縛るのではなく、隣にいる誰かの背景を思いやる。そのささやかな優しさが巡り巡って、いつか自分が困った時の救いになる――。今日もしっかりと足元を確かめ、誰もが安心して目的地まで辿り着けるような、温かい車内環境をみんなで育んでいきたいものです。
<TEXT/chimi86 再構成/日刊SPA!編集部>
―[乗り物で腹が立った話]―
【chimi86】
2016年よりライター活動を開始。出版社にて書籍コーディネーターなども経験。趣味は読書、ミュージカル、舞台鑑賞、スポーツ観戦、カフェ。

