◆届かない「Excuse me!」と無情に閉まるドア
車内に「まもなく、岡山」のアナウンスが流れました。焦った稲垣さんは、震える声で隣の男性に声をかけました。
しかし、大きなヘッドホンを装着し、音楽に没頭しているのか、男性はピクリとも動きません。稲垣さんは必死にカタコトの英語で何度も叫んだといいます。
「何度も言ったんです。でも、みんなイヤホンをしていて僕の声なんて届いていない。肩を叩いて知らせようかとも思いましたが、あまりの迫力と通路を塞ぐ荷物の山を見て、勇気が完全に萎縮してしまいました」
新幹線がホームに滑り込み、ドアが開く音が聞こえます。通路を埋め尽くす巨漢たちと、巨大な荷物の群れ。それを乗り越え、無反応な彼らをかき分けて進むには、あまりにも時間と度胸が足りませんでした。
「無理に動かしてトラブルになったら……、と言葉の通じない相手への恐怖が勝ってしまい、体が石のように動かなくなってしまったんです」
そうこうしているうちに発車ベルが鳴り響きます。ドアが閉まり、列車はゆっくりと岡山駅を離れていきました。
◆後悔の終着駅で誓った自分への自戒
幸いにも広島で隣の男性が降りたため、稲垣さんもともに下車。すぐさま事務所に連絡を入れ、折り返しの列車に飛び乗りました。「結局、アポには数分の遅れで済みましたが、役所回りのスケジュールはガタガタ。何より、期待して待ってくださっていた担当者の方に、こんな情けない理由でお詫びをするのが本当に申し訳なくて……。徹夜明けで油断して寝たこともよくありませんでしたね」
自らの「気の弱さ」を痛感した今回の出来事。彼はそれ以来、出張時の新幹線では絶対に寝ないように心掛けているといいます。
「マニアとして楽しむのはいいけれど、仕事の責任を忘れてはいけない。あの集団を責めるつもりはありません。問題は、一歩を踏み出せなかった僕の心の弱さにあるんです」
広島で急いで買ったというお土産の「もみじ饅頭」は、苦い後悔の味がしたそうです。
<TEXT/八木正規>
※出典:観光庁令和7年(2025年)「訪日外客統計」/出入国在留管理庁
【八木正規】
愛犬と暮らすアラサー派遣社員兼業ライターです。趣味は絵を描くことと、愛犬と行く温泉旅行。将来の夢はペットホテル経営

