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秘境、あるいは城下町。自分だけのSecondTownを手にした人たち。

秘境、あるいは城下町。自分だけのSecondTownを手にした人たち。

宮崎県椎葉村・山之内裕信さん(41歳)× 長野県上田市・葛巻朱音さん(28歳)

東京→宮崎・椎葉村|「東京は道場だった」

山之内裕信さん(41歳)は、スクロールしていた画面の中で奇妙な投稿に目が止まった。「ひげのおじさんが杖を構えて『弟子募集』と言っていたんです」。それは、宮崎県椎葉村——日本三大秘境に数えられる山深い村から届いたインタープリター(自然・文化の解説者)募集のプロジェクト。その後、自身の10年間の公務員キャリアにピリオドが打たれることは、彼はまだ知らない。

北九州市出身。幼い頃から山や自然が好きで、高校時代の夢はツアーコンダクターだったという。就職は旅行業界を志望したが、OB訪問で訪れた旅行会社の先輩が「合コンやり放題だよ」と自慢するのを聞いて嫌気が差し、内定を蹴る。代わりに就職したセキュリティシステム会社の飛び込み営業をしていた頃、マンションの管理組合の仕事で出会った役場の人に興味を持ち、公務員試験を受験。世田谷区役所に入庁して下北沢の再開発、待機児童対策、コロナ禍のDX担当などを歴任。紆余曲折を経た10年間で、年収は750万円に達していた。

常に不満があったわけでもない。公務員の仕事では、保育園建設で親御さんに感謝された時は「人の役に立つ仕事」にやりがいも感じていた。それでも、ある感覚が澱のように積もっていく。「東京には優秀な人がいっぱいいる。自分じゃなくてもいい、誰でもいい」。ぼんやりと「足りない力、満たされない心」を抱えたまま、目の前の仕事に「これ、意味あるのかな」と自問することも多くなっていく。

契機はコロナ禍に訪れる。なんとなく向かった山登りで想像以上にこころを動かされた。「こんなに良かったっけ、と素直に思ったんです」。そして東京に戻ると意識は「山で暮らすこと」に向いていた。その想いは、移住・関係人口のマッチングサービス「スマウト」に出会うことで現実に近づく。「昔はリクナビしかなかった。地方から人材を探せるこのサービスは革命だと思います」。そして、「椎葉村のひげのおじさん」と出会うのである。

「昔の同級生の名字が椎葉だったり、実家も九州で親近感があって、行ってみようかなって、本当に軽い気持ちでした」。思い立ってすぐに辞表を出してそのまま応募し、面接を通過。8月に投稿を見つけて、翌年1月には椎葉の地に足を踏み入れていた。

椎葉に来た当日の記憶も鮮明に覚えている。気温はマイナス7度。水道管は凍結し、移住の先輩に「湧き水を汲めばいい」と教わった。寝袋で眠り、翌朝、持参のおにぎりが凍っているのを見つけたとき、「俺、生きていけんのかな、と思いました」。

それでも春になると、山全体に花が咲いて、世界はまるで桃源郷のようだったという。移住直後に出会った焼畑農業の仕事では、木を切り火を放つ300年の循環に感動した。東京の暮らしから劇的に世界が変わっていく。

「下流に綺麗な水を渡すために焼畑をしていると教わりました。焼き跡には、鹿やイノシシが食べられるように栗や桜などの広葉樹を植えると聞いて、その壮大さに言葉が出なかったです」。その後、焼畑保全のクラウドファンディングを実施し、2年で500万円を集めるなど、精力的に椎葉で活動を続けていく。

椎葉には、数百年もの時を超えて受け継がれてきた暮らしが、今も確かに息づいている。しかし、それは決して盤石なものではなく、かろうじて保たれているのが現状だ。かつて26の地域で守られてきた伝統の神楽は、今では13にまで減ってしまった。

「消えてしまう前に残さなければという重さを感じます。世田谷でDXをやっていた頃とは、全く違う重みがありますね」。年収は250万円まで下がった。「金はなくなったけど、毎日が楽しい。それが一番幸せです」。今では、秘境ガイドサービス「CHENAM(チェナム)」を立ち上げ、東大の大学院生や「京都に飽きた」というアメリカ人グループが彼の元を訪れる。

東京での10年を、山之内さんはこう呼ぶ。「道場でしたね。土地収用の交渉も、保育園建設の根回しも、あそこで耐えてやってきたことが、今の事業を動かす力になっている」。椎葉には「自分じゃないとできない」仕事がある。それが、東京にはなかった感覚だった。

東京→長野・上田市|「何をしても私らしくなれる」

葛巻朱音さん(28歳)が「移住しよう」とスイッチを入れたのは、2025年1月のことだ。広告代理店で月70時間を超える残業が続く中、「ここで30歳まではいられない」と悟り、移住と転職を同時に動かし始める。

札幌出身。大学入学を機に上京し、10年を東京で過ごした。1社目のBtoB研修会社でインサイドセールスを担当した3年半、小さな組織の中で仲間が次々と去るのを見送り続けた。「10人いた社員が1年で3人になった。仲間が増えていく環境で働きたい、という感覚が積み重なっていきました」。

それと同時に感じていたのが、東京への違和感だ。「満員電車がしんどい。疲れた顔で通勤する人たちを毎朝見ていると、東京にいる限り毎日この光景かと思いました」。30歳までの移住を心に決め、マーケティングスキルを積もうと2社目の広告代理店へ。しかし予想以上の激務が続き、入社1年後には動き出すことにした。

その頃、有楽町の移住支援センターへ足を運び、大規模な移住イベントにも参加してみた。相談窓口でスマウトを知り、移住の条件の絞り方を掴んできた。その中で石川県の空き家に泊まるという魅力的なプロジェクトに出会う。雪が好き、海より山、関西方面の空気感は少し合わない、実家へ行く新千歳空港へのアクセス……、そうして条件を絞り込んだ先で、転職エージェントから紹介されたのが長野県上田市のIT企業だった。

全国47都道府県の名産品を扱い、個人や企業向けのギフトサービスを展開するその会社は、葛巻さんの入社と同タイミングで新しいサービスの本格的なセールスを始めようとしていた。「上田という街を全く知らなかったんです。でも地方の企業ならではのサービスで、そこに住むことへの違和感がなく、組織も若くスピード感に惹かれて決めました」。2026年1月に移住し、2月から働き始めた。

上田での暮らしを、葛巻さんは「ただの引越し」と表現する。「新幹線で東京まで90分。嫌になったらまた引越せばいい」。そのフラットな感覚は、東京での疲弊を経て手にした身軽さでもある。前職では時間が惜しくてシャワーだけで済ませていた平日の夜が、今は違う。「18時に退社して、帰ったらゆっくりお風呂に入れます。今日は凝った料理をしてみようと思えるエネルギーがある」。

東京にいた頃は「28歳の東京OLらしく」という見えない圧があったという。「おしゃれなカフェに行っておこうかな、インスタ映えする生活ってなんだろうという気持ちがあった。誰にも求められていないのに」。上田には比べる対象がいない。「何をしても私らしくなれる」。

仕事では、東京では埋もれていた主体性が求められる。「今の会社では、上から仕事が降ってくるのではなく、自分でゼロから考えないといけない。継続してもらえる仕事、の前提がない。どう認められて仕事をとってくるかが試されてます」。それが今は面白い。目標は「一人マーケ」として独り立ちすること。そして、地方出身者が自分の町を下に見て語ることへの違和感から、「地方の企業やモノごとのPRをお手伝いして、自分の出身地を誇らしく話せる人を増やしたい」という思いへとつながっている。

配信元: Harumari TOKYO

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