
不動産の原状回復をめぐるトラブルは後を絶ちません。特に費用負担について、どこからどこまでが借主・貸主側の責任なのか、互いの主観が入るため、どうしても揉めやすいようです。そこで今回、大家と揉める59歳男性の事例をもとに、原状回復をめぐるトラブルの回避策と考え方のポイントをみていきましょう。
大家から届いた「原状回復費用」の請求に激怒
「10年も住み続けて、家賃も一度も滞納したことがない。それなのに、最後がこれですか。あまりに人を舐めています」
都内の中堅メーカーに勤務するケンイチさん(仮名/59歳)。月給は約40万円、定年退職を目前に控えた独身男性です。
そんな彼の穏やかな生活を一変させたのは、長年住み慣れた賃貸マンションを退去した後に届いた、一通の茶封筒でした。
きっかけは、親の介護のために実家へ戻ることになり、約10年間入居した1LDKのマンションを解約したことです。ケンイチさんは、10年という月日が経っている以上、壁紙の変色や畳の傷みは「経年劣化」として認められ、預けていた敷金もいくらかは戻ってくるだろうと楽観視していました。
ところが、退去から2週間後、管理会社を通じて大家から届いた見積書の内容に、ケンイチさんは声にならない悲鳴をあげました。
「原状回復費用:合計80万円」
そこには、クロスやフローリングの全面張り替え費用だけでなく、ケンイチさんには身に覚えのないキッチンの設備の交換費用までがずらりと並んでいたのです。さらに驚いたことに、敷金はすべて充当されたうえで、不足分として約70万円もの追加請求がなされていました。
「冗談じゃない……10年も住めば汚れるのは当たり前だろ。わざと壊した場所なんて一つもないのに」
ケンイチさんが管理会社に電話で抗議すると、担当者は「大家さんが、次の入居者のために部屋を新築同様に戻したいと言っている。規約にも原状回復の義務は明記されている」と、聞く耳を持ちません。
大家側は、ケンイチさんが独身で定年間際ということもあり、「まとまった退職金が出るだろう」と踏んで強気の請求をしてきているようでした。
「納得できないお金は1円たりとも払いたくありません」
長年の誠実な入居生活を裏切られたという強い憤りと、老後資金を削られる恐怖。
ケンイチさんは現在、徹底抗戦を誓い、弁護士のもとを訪れています。果たしてケンイチさんは、この法外な請求を退けることができるのでしょうか。
弁護士の見解
本件のような退去時の原状回復費用をめぐるトラブルは、実務上、非常に多い相談事例です。結論からいえば、「10年居住=全面張替え費用を借主が負担する」という考え方は、ガイドライン上妥当ではありません。
国土交通省の「原状回復をめぐるトラブルとガイドライン」では、通常損耗や経年劣化は貸主負担とされており、借主が負担すべきなのは、故意・過失や通常の使用を超える損耗に限られます。
特にクロスや床材については、耐用年数の考え方が示されており、長期間の居住後に新品同様の費用を全額請求することは、原則として認められません。
また、「次の入居者のために新しくしたい」という事情は、貸主側の都合に過ぎず、その費用を当然に借主へ転嫁できるものではありません。
契約書に原状回復義務の記載があったとしても、その内容がガイドラインや判例の考え方に反する場合、直ちに全額負担が認められるわけではないことを覚えておきましょう。
もっとも、賃借人側も「経年劣化」や「大家負担」を主張しすぎて平行線となり、双方が決着をつけられず、かえって紛争が激化してしまうケースもあります。
重要なのは、見積の内訳を精査し、「経年劣化か、借主負担か」を合理的に整理していくことです。
お互いに、感情的には「1円でも自分に有利に」と感じる場面でも、法的に支払うべき部分とそうでない部分を整理し、ある程度相互に尊重しながら譲歩し合うことが、適切かつ早期の紛争解決に資するといえるでしょう。
山村暢彦
弁護士法人山村法律事務所
代表弁護士
