港区・西麻布で密かにウワサになっているBARがある。
その名も“TOUGH COOKIES(タフクッキーズ)”。
女性客しか入れず、看板もない、アクセス方法も明かされていないナゾ多き店だが、その店にたどり着くことができた女性は、“人生を変えることができる”のだという。
タフクッキーとは、“噛めない程かたいクッキー”から、タフな女性という意味がある。
▶前回:10年前に別れた「元カノの家」をいきなり訪ねた男。女の反応は意外なもので
「キョウコさん、僕の彼女のともみさんです」
— ウソ、でしょ…。
元恋人に現恋人としてさらりと、堂々と紹介されるという驚きが吹き飛ばされてしまう衝撃だった。
はじめまして、と静かに微笑んだショートカットのその人が、大輝の想い人の“キョウコ”さんであり、“人気脚本家”の門倉キョウコ先生であったことに、ともみはここ数日、散々考え抜いてきた作戦や戦闘意欲が、結び目を解かれた風船のように、しゅうぅぅと情けない音をたててしぼんでいくように感じていた。
なんとか顔だけは…と笑顔を作り返した(はずの)ものの、その表情を管理できているのか、ともみには自信がなかった。
六本木のラグジュアリーホテルの、パークビュールーム。ライトアップされた葉桜を見下ろすことができるオープンテラス付きの宴会場。
売れっ子脚本家と呼ばれ始めている大輝に、映画関係者が主催するパーティーに一緒に行ってくれる?と誘われ、そこで“キョウコさん”にも紹介させてと言われた時、芸能界にいたときの思わぬ知り合いに会う可能性を考えないわけではなかった。
けれど、映画に出演した本数は限られているし、人の流れの早い芸能界で、7年も前に消えた“元アイドル”の一人なんて、記憶に残している人の方が少ないだろう。
それよりも、元恋人に会ってみる?という大輝の提案に、前のめりになったのはむしろともみの方で、現恋人として対決の機会を逃すわけにはいかないと、ヘアメイクも服も、完璧に整えてここへ来たのだけれど。
― キョウコ、なんてよくある名前だし、まさか門倉先生だなんて。
門倉キョウコが、大輝が最近書いたテレビドラマについて褒め、それを喜ぶ大輝の談笑を見つめながら、ともみにこみあげてきたのは、嫉妬と呼ぶにはあまりにも複雑な感情だった。
ともみはキョウコの書く作品のファンだったからだ。それも、熱烈な憧れと言ってもいいほどの。
芸能界にいた頃、感情を露わにすることを避けていたともみが、キョウコが書いたドラマや映画のオーディションだけは受けたいと望んで、他のスケジュールよりも優先したいと懇願し続けたことに、事務所のスタッフも驚いていた。
出演できたのはたった1度だけ。まだ子どもだった15歳の時で、主人公は政治家を目指す正義感の強い女性で、そのために憧れの国会議員の秘書になるが、その議員の国を揺るがす不正に気がつき、大きな力と闘っていく、という海外の実話に基づいた社会派の作品だった。
ともみは、主人公が不正を追い続けて行く中で出会う女子高生で、脇役ながらも、主人公に影響を与えるという重要な役で、ともみの芸能界での夢が叶った仕事の1つだった。
門倉キョウコは、20歳で大きな脚本賞をとり華々しくデビューした。しかもその作風は“若い女性だから”というものではなく、がっつりと硬派。
ともみが参加した作品を書いた時もまだ26、27歳くらいだったはずだが、その撮影現場で、業界の権力者のおじさんたちに向かって、堂々と意見を放つキョウコの姿はとても凛々しくて、ともみの憧れはさらに強くなったのだ。
だから、芸能界を引退した今も、キョウコが書いた作品は欠かさず見ているし、その度に魅了されてきた。でも、こんなファン心理のままじゃ…。
— 闘う前から負けてる。
「ともみ?」と、しばらく黙ったままだったともみに気づいた大輝が、「どうかした?」と、ともみの腰をそっと支えるように抱いた。
慌てて、大丈夫だと大輝を見上げ、その場を取り繕おうとしたともみは、ふいに、キョウコの波のない湖の水面のようなまなざしが、ともみの顔を捉えたまま動かないことに気づいて、戸惑った。
「…あの?」
「ともみさんって、もしかして、みなみちゃん、だったり…しませんか?」
「不躾にごめんなさい」と、薄い唇で遠慮がちにほほ笑まれたその時、まさかという驚きと、抑えきれない喜びがこみ上げてきて、ともみは震えた。
「覚えててくださったなんて…」
「やっぱり?」
「そうです、みなみです。どうしよう、うれしすぎます…!」
らしくもない興奮で、声を上ずらせたともみに大輝は驚き、私もうれしい、と微笑んだキョウコにも戸惑っている。
「みなみちゃん、って…ともみ、どういうこと?」
大輝の質問に答えたのは、キョウコだった。
「以前、ともみさんは私が書いた映画に出てくださったの。その時の役名が“みなみちゃん”だった。あのみなみちゃんは私には特別なキャラクターだったから。もう10年以上前よね」
「撮影は13年前でした」
ともみは即答した。オーディションを受けた日のこと、本読みから撮影、そして完成した映画を見たときの気持ちまで、全てをはっきりと覚えているし、忘れられないのだ。
「みなみちゃんっていうのは、15歳の女子高生の役でね。
自分が幼い頃から家族を顧みず仕事ばかりだった父親に反抗してぐれたりもするんだけど、父親が冤罪で捕まったことをきっかけに、父親が何と闘っていたのかを知る。尊敬すべき正しい大人だったということもね。
汚くて大きな権力に飲み込まれそうになっても、諦めない賢さがある役だった。子どもだからとなめてかかったら取って食われるようなね。欲にまみれて潰された真実を純粋な正義で取り戻す。そんな未来を信じて闘う、というのがあの作品のテーマだったから。その象徴としても、“みなみ”というのは本当に大事なキャラクターでね。
だから、年齢よりも大人びた賢さのある子でありつつ、ふとした瞬間に幼い子供の純粋さも見せてくれる人に演じて欲しかったの。どんな妨害を受けても正しいと信じた方向に突っ走っていくような、純粋さの狂気とでもいうのかな」
ともみが演じた“みなみ”は、地方の県会議員の娘で、国会議員の不正により無実の罪を押し付けられて逮捕された父親を信じ続け、最後はヒロインに重要な証拠を提供する、という役だった。
「ともみさんがオーディションで演じてくれた時、私は、この子だ、って確信して。監督にともみさんじゃなければ嫌だと言い張ったの。他の人にするなら脚本を引き上げるって言っちゃった。そんなの脚本家人生で初めてのことだったし、それ以来ないんだけどね。
だから完成した映画の中で“みなみ”として動くともみさんを見たとき、自分のジャッジは間違えていなかったと、とてもうれしくなったのを…今でも忘れられないのよね」
つまりごり押し成功ってことよね、と笑ったキョウコを、ともみは信じられないとばかりに目を見開き見つめた。確かあの時、オーディションは形ばかりで、みなみ役は、主演の有名女優が所属する大手事務所の新人アイドルに既に決まっているというウワサがあった。
それでも諦めきれないともみは、周囲の反対を押し切りオーディションを受けたのだが、まさか、敬愛する“門倉キョウコ先生”が、自分を選んでくれていたとは。
どんなに人気脚本家だったとしても、30歳にも満たない若さの、しかも女性の脚本家がキャスティングに口を出したのだから、大手事務所も映画会社の重鎮たちもきっと怒り狂っただろうと容易に想像できる。
— あの頃の自分に、教えてやりたい。
そうまでして託された役だったと知れば、あの頃の必死さが報われた気がした。泥の中をはい回るような努力が無駄ではなかったのだと、ともみは鼻の奥がツンとして、溢れてきそうになった熱いものをごまかすように言った。
「あの役はどうしても欲しかったから…受かってからも必死だったんです。完成してからも、全てがうまくできたとはとても思えなかったんですけど…」
「私は素晴らしいと思ったわ。それにいくつかの映画祭で、助演賞をもらってたわよね」
「地方の映画祭の、ですけど」
「大きな賞は、利権も絡む。全てだとは言わないけれど、出来レースも多いでしょう?だから、地方の評価こそ信じられるのじゃないかと私は思うわ」
静かに、けれど凛とした口調でよどみなく言いきったキョウコに、このパーティーには、その“利権”に絡んだ人達が多くいるのではないかと、ともみの方が心配になり、周囲を見渡す。
― やっぱり…門倉先生って、作品だけじゃなくて、人としてもかっこいいんだな。
キョウコに見惚れていたともみに、大輝が拗ねたような顔で言った。
「キョウコさんの作品は全部見てるけど、あの役がともみだったなんて。オレ、気づいてなかったな」
「公開されてからもう10年以上が経つし、大輝くんが見たのも、随分前でしょう?出演シーンが多い役でもないわけだし、私も今とだいぶ印象が違うから仕方ないよ」
そもそもつい最近まで、私の過去なんて興味なかったからじゃない?という本音はぶつけず、心で思う。
— あなたの女性の趣味が、とびきり良いってことがわかっただけでも…うれしいよ。今日来て良かった。
感謝のような気持ちで大輝に微笑み、キョウコに視線を戻すと問いかけられた。
「ともみさんは、今も芸能のお仕事を?」
「いえ、もう…やめてから随分経ちますね」
そう、と微笑んだキョウコが、なぜ?とか、もったいないわね、とか、それ以上を追求しないことにも、ともみはさらに好感を持った。
おそらく170cmを超える身長、ショートカットにブラウンのパンツスーツ。“女”を強調するアイテムを装備せずとも、知性に裏打ちされた色気が漂い、きっと“良質な男性”からモテる人だ。
― 強敵には間違いないけど、なんか燃えてきたかも。
憧れの人が恋のライバルになった不思議。そのライバルが言った。
「ともみさん、もしよければ、これから2人きりで話しませんか?」
「キョウコさんひどい。それって、今日はもう、オレは用無しってこと?」
苦笑いの大輝に、「どうしたい?」と聞かれ、ともみは迷うことなく、「是非!」と答えていた。
ホテルのバーに2席の予約を入れたのは大輝だった。
「ともみ、終わったら連絡してね。迎えにくるから。でもお2人とも、オレのことは気にせず、ごゆっくり」
そう微笑むと大輝は、パーティーの関係者に挨拶を済ませてくる、と、ともみの額にキスを落としてから、キョウコとともみから離れて行った。
少しだけ緊張し始めたともみを、キョウコが、「じゃあ行きましょうか」と先導し、2人で40階まで上がると、「友坂さま、2名様ですね」と大輝の苗字で、窓際のソファー席に案内された。
キョウコの注文は、桜の季節の終わりを表現したという、ドン・フリオというテキーラとドライシェリーが使われた、その日のお薦めのオリジナルカクテルだった。
「このテキーラは飲んだことないから、飲んでみたい」と、迷わず注文したキョウコのことを、
— 臆さない人。
と、推測しながらともみも同じものを頼んだ。
お薦めを頼む客の中には、酒に詳しくなくて自分で決められないから、という人もいるけれど、キョウコの注文の仕方は、知らないからこそ飲んでみたい、という好奇心に動かされていた。客商売をしていると気づくが、知らないものにはトライしたくない、と臆してしまう人の方が、多いのだ。
お出しできるまでに、少しお時間を頂くことになります、と申し訳なさそうに去っていくサービスの女性を見送りながら、ほぼ満席の金曜19時過ぎの店内を見渡す。
天井まで突き抜けた壁一面の窓からは、以前は東京タワーが見えていたはずだけれど今は見えない。麻布台ヒルズが建っちゃったからだったっけ…などと、ともみがぼんやり思い浮かべた時、キョウコが、ふっと笑った。
「友坂くんに紹介したいと言われた女の子が、まさかともみさんだったなんて。私の映画に出てくれた時は、お名前が違ったから、最初は気づかなかったけど」
「はい、本名を使って芸能活動をすることを、母が良しとしなかったので」
ともみは、子役でデビューしたときは、柿本アン、という芸名で、アイドルになってからはそれをアルファベットにしたAN、を使っていた。柿本は、母の旧姓だった。
大輝とは呼ばず、友坂と苗字を呼んだのは自分への気遣いなのだろうかと思いながら、ともみはキョウコに、思い切って聞いてみることにした。
「大輝…さんは、今日のことを――門倉先生と私が会うという段取りを、どのように先生にお願いしたいんでしょうか」
ここ数日、大輝から呼び捨てにするようにとしつこく言われ続けたせいで、思わずここでも呼び捨てにしそうになったけれど、なんとか、さん、を足して聞いたともみに、キョウコは淀みなく言った。
「大切にしたい恋人ができた。その女性がキョウコさんと僕のことを知りたいと言っています。彼女に隠しごとをしたくないし、不安を取り除いてあげたいから、彼女に会ってもらうことはできますか、って」
大輝という男性が、何かと規格外だということは知ってたけれど、包み隠さないにもほどがあると、戸惑うともみにキョウコが続けた。
「友坂くんは、あの通り、どこか本能的な人だから。そこに驚くけれど、だからこそ彼が魅力的だということも、ともみさんも、私もよくわかっている。…わよね」
ともみが頷くと、キョウコはまた、静かに微笑む。
「ともみさんが私に会いたいと言ってくれたということは、私が友坂くんの恋人だったことも、私に夫がいることも、ご存じということよね」
ともみはまた小さく頷いた。
「まず、改めてきちんと私の口からお伝えすべきことだと思うのだけれど、私と友坂くんは、もう完全に終わってる。それは本当に信じてね。
だからこそ、私はあなたに会ってみたいと思った。あなたがもし私に聞きたいことがあるのなら、何でも正直に答えさせてもらおうと思ったの。それが私が彼にできるせめてもの……最後の恩返しだから」
キョウコの言葉は穏やかだったけれど——穏やかだったからこそ、ともみの胸はドクンと跳ねた。そして気づいてしまった。
― 先生は、きっとまだ…
大輝を想っているのだ、と。
▶前回:10年前に別れた「元カノの家」をいきなり訪ねた男。女の反応は意外なもので
▶1話目はこちら:「割り切った関係でいい」そう思っていたが、別れ際に寂しくなる27歳女の憂鬱
▶NEXT:9月30日 火曜更新予定
ともみとキョウコが2人きりで話し、明らかになった真実とは?

