◆これまでのあらすじ
莉乃(30)と正輝(30)は、性別を超えた幼少期からの大親友。しかし、正輝の彼女である萌香(27)は、正輝が異性の莉乃と仲がいいことを快く思っていなかった。
彼氏の秀治からもそのことを指摘された莉乃は、正輝と連絡を取らないことを決意。一方の正輝も、萌香に泣かれたことで莉乃と連絡を絶つ決意をする。
しかし莉乃はある日、萌香が知らない男性とホテルに行くのを目撃してしまい…。
▶前回:半日返信しないと鬼LINE。面倒な女と思いつつ、それでも30歳男が結婚を決めたワケ
Vol.10 <莉乃>
横浜駅西口に構えた新スタジオは、ビルの8階かつ壁一面がガラス張りになっており、景観が抜群だ。
朝の時間は、秋らしい柔らかい日差しがたっぷり入って気持ちがいい。
それに、仕事帰りの若い女性たちがメインターゲットになる19時以降は、横浜らしい夜景が眼下に広がり、きっと恵比寿のスタジオよりも非日常感のあるリラクシングな空間を提供できるだろう。
「プランクポーズ、板のポーズ。チャトランガダンダアサナ…アップドッグ、からの〜ダウンドッグ…」
このスタジオは、ピラティスがメインだった恵比寿スタジオとは少し趣向を変えて、ヨガメインのスタジオにするつもりだ。
今は、以前入っていたテナントのモダンラグジュアリーなエステサロンから、ホワイトを基調としたインテリアに改装中。壁紙や照明はまだ改装中なものの、床だけはウッド調のクッションフロアに張り替えは済んでいる。
途中経過をチェックしに新スタジオを訪れた私は、今日の作業が始まる前に簡単にヨガマットを敷いて、朝のストレッチ代わりの太陽礼拝を数回こなしているのだった。
「あぁ、気持ちいい。やっと体が起きてきた感じがする」
10回目の太陽礼拝を終えた私は窓際に立ち、家から持参したレモン入りの水を飲む。
朝食は、家に帰ってからにするつもりだ。日課通り9時ごろに秀治と一緒に食べようと考えているため、今は水分だけにしておく。
体も動かし終わり、本来だったらお腹がグーグー爆音を鳴らしても不思議はない。それなのに今の私は、レモン水を少し飲んだだけでも胸焼けしそうな感覚を覚えていた。
このところずっと、食欲がない。
この2ヶ月の間、体はすこぶる元気なのに、心の中に大きなモヤモヤが澱のようにたまっているのだ。
その理由は明らかだった。2ヶ月前に目撃した、“あの光景”が目に焼き付いているから。
― やっぱりあれって…萌香ちゃんだったよね…。
深夜の恵比寿で、萌香ちゃんが知らない男性とホテルに入って行く姿は、忘れようと思っても忘れられるものじゃない。
見てはいけないものを見てしまった。
サッと血の気が引くような衝撃を覚えた私はあの時、とっさに目を逸らしたけれど…。
勘違いでなければあの瞬間、萌香ちゃんの方も私を見つけていた。
それも、皮肉な微笑みを唇の端に浮かべて。
― 萌香ちゃん、どうして…?
何度考えても、分からない。
発見してすぐは信じられなさすぎて、何度も見間違いだと自分を納得させようとした。
だけど、月日が経てば経つほど輪郭は強さを増していく。
それは、萌香ちゃんを信じたいという渇望に似た気持ちと───正輝に伝えないままでいいのかという罪悪感によるものに違いなかった。
「放っておけよ。責任取れないだろ」
モヤモヤと悩み続け、自分ひとりではついに抱えきれなくなったある日。
朝食を食べながらあの晩見たままの事実を秀治に相談すると、秀治は即座にそう答えた。
「責任」
理解しきれずにオウム返しをする私に、秀治は絡まった糸を解いてみせるように説明する。
「莉乃が目撃した光景が、単なる見間違いだった場合。問題なく仲睦まじく付き合っている正輝くんと萌香ちゃんの仲に、不必要な亀裂を入れることになる。
莉乃が目撃した光景が、見間違いじゃなく事実だった場合。莉乃が介入することで、ふたりは破局するかもしれない。そういう責任、とれないだろって話」
「でももしその場合は…。正輝たちのケースに限らず、裏切った人の自業自得じゃないの?
もし私が当事者だったら、裏切られてることを知らないでいるなんて、惨めすぎるよ。真実を知っている人がいるなら教えて欲しいと思う」
イマイチ釈然としない私は、軽く反論をした。だけど秀治は、コーヒーカップに手を添えたまま眠そうな顔で言うのだった。
「それはまあ、考え方の違いだろうな。
正輝くんが今萌香ちゃんと幸せに過ごしてるとして、こんな事実は知りたいかもしれないし、知りたくないかもしれない。それは莉乃には分からないんじゃないの?
知らないままでいられたらよかったのに。丸く収まったのに。そういうことって、この世の中にいくらでもあると思うよ。俺はね」
秀治の持論は、私にとってはあまりにも感性的に聞こえた。
「知らないことは、無いことと一緒。
正輝くんと萌香ちゃんだって結婚してるわけでもないんだし、たかが友達が首突っ込むことじゃないんじゃないかな」
呑気にあくびをする秀治にそれ以上の反論をしなかったのは、感性的すぎると思いつつも、ほんの少しではあるものの納得させられた部分があったからだ。
知らないままでいられたらよかったのに。
それは、秀治から「男女の友情は、パートナーの犠牲の上に成り立っている」という一言を聞かされた瞬間、私の脳裏をわずかに掠めた言葉じゃなかっただろうか。
正輝との友情が、9年もの間ずっと秀治に我慢をさせていたのかもしれないと知った時──恥ずかしさ申し訳なさと同時に感じた、ひとかけらの気持ち。
何も気づかず鈍感なままでいられたら、今も正輝と肩を並べて冗談を言い合えていたんだろうか?
秀治を前にして少しでもそんな風に思ってしまった自分は…最低だ。
スタジオを後にして、横浜駅のホームへと向かう。
新しいスタジオを見ても、がむしゃらに体を動かしても、心地よい秋の風に頬を撫でられても、心のモヤモヤが晴れないことに自分でも驚いていた。
これまで私という人間は、長い期間ウジウジと悩み続けることなんてなかったから。
悩むより、まず行動。
それでも解決しない時は、美味しいものを食べにいって憂さ晴らし。
でもよく考えてみれば、いつもそれに付き合ってくれていたのは正輝だったから。
正輝と連絡を取らなくなって、11月で2ヶ月が過ぎた。こんなに連絡を取らなかったことは、幼少期から遡っても初めてのことだと思う。
正輝の幸せのために連絡を断ったというのに、正輝の幸せのことで悩んで、正輝に相談したくなっているなんて、バカみたいだ。
― 責任って、なんだろう。
秀治は、「たかが友達」と言っていた。
そこそこ仲のいい女友達に、今の状況を当てはめて考えてみる。
きっと伝えるであろう子もいれば、私の出る幕じゃないと思う子もいた。
そして、萌香ちゃんのためにも連絡を取り合わないと決めた正輝の場合も、普通に考えればきっと後者の、“私の出る幕じゃないパターン”なのだろう。
― うん、そうだよね。とにかく、連絡をとらないって決めたんだし。そっちを守るべきだよ。
朝の京浜東北線の上りのホームは、ギュウギュウに混雑している。
横浜駅全体が多くの人で溢れかえっていて、これだけの人々がそれぞれ一体どこへ向かうのか、全く検討もつかなかった。
― そうだよ。この先ふたりがどうなるかも分からないんだから。
結婚していないカップルはまだ、自由に恋愛をする権利を持っているはずだ。
あの夜の萌香ちゃんがどんな状況であろうと、別に法に触れるわけでもない。正輝が傷ついたってそれは、何の損失も被らないただの恋の痛みだ。
そう考えると秀治の言う通り、いくら親友であろうと私が首を突っ込む話じゃないのかもしれない。
大勢の人々にもみくちゃにされていると全ての事柄が矮小に感じられて、私はついに結論を出そうとしていた。「このまま見て見ぬふりをする」という結論を。
それなのに…。
<間もなく、東京方面大宮行き電車到着です───>
ホームアナウンスと雑踏の音に紛れて、バッグの中からバイブレーションの振動が聞こえた。
「秀治かな」
少し冴えてきた頭で朝食のメニューを考えていた私は、だけど、スマホの画面を見るなりギョッとしてしまうのだった。
届いたLINEのメッセージ。
その送り主は────他でもない、正輝だったから。
「え、なんで?」
今しがた正輝のことを考えていた私は、驚きを隠せないままメッセージを開ける。
けれどそこには、さらなる驚きが待ち構えていた。
『正輝:ひさしぶり!突然だけど、萌香と結婚することになったよ。
連絡取らないって約束したけど、莉乃には一番に報告したかったんだ───』
▶前回:半日返信しないと鬼LINE。面倒な女と思いつつ、それでも30歳男が結婚を決めたワケ
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萌香の浮気は黙っておこうと、決めた途端の結婚報告。当事者の萌香の心境は…

