第3章:ブルゴーニュの決断-新アペラシオン創設への転換
全国レベルでの改革の動きが停滞する中、事態を大きく動かしたのはブルゴーニュ地方の生産者たちであった。彼らは、ほかのどの産地よりも「ブルゴーニュ・ムスー」という呼称がもたらすイメージの毀損に苦しんでいた。1970年、INAO(国立原産地名称研究所)のブルゴーニュ地域委員会は、この問題に正面から取り組むため、ヴァン・ムスーの品質向上を目的とした特別委員会を設置した。
「ルネ・シュヴィア」「ジャン・フランソワ・ドロルム」「ベルナール・バルビエ」といった情熱的な生産者たちが中心となったこの委員会は、2年間にわたる徹底的な議論と研究を重ねた。彼らがとくに重視したのは、スパークリングワインの品質の根幹をなすベースワインの改革であった。どのブドウ品種を用いるべきか、収穫の申告をどう制度化するか、醸造方法をどう規定するか。彼らは、シャンパーニュに匹敵する品質を目指し、72年にブルゴーニュ・ムスーのための全く新しい、厳格な規定書の草案をまとめ上げた。
当初の目的は、あくまで既存のブルゴーニュ・ムスーという枠組みの中での品質向上であった。しかし、このブルゴーニュの先進的な取り組みは、ミシェル・ラテロン氏ら全国の改革派の注目を集めることになる。彼らはブルゴーニュの生産者たちに、単なる品質規定の改訂にとどまらず、呼称そのものをクレマンへと変更するよう強く働きかけた。さらに、彼らは極めて戦略的な提案を行った。それは「ブルゴーニュ・クレマン」ではなく「クレマン・ド・ブルゴーニュ」という呼称を採用することであった。この呼び名の違いには、レストランのワインリストにおける掲載場所の確保という、マーケティング上の深謀遠慮が込められていた。ブルゴーニュ・クレマンではブルゴーニュワインのカテゴリーに埋もれてしまうが、クレマン・ド・ブルゴーニュならば、シャンパーニュと同じスパークリングワインのカテゴリーで消費者の目に留まるという狙いがあったのである。
この提案は、ブルゴーニュの生産者たちの心を動かした。そして73年4月、ディジョンで開かれた生産者総会において、歴史的な決断が下される。新しい規定書の名称はブルゴーニュ・ムスーからクレマン・ド・ブルゴーニュへと変更されることが満場一致で採択された。これは、単なる呼称の変更ではない。既存のアペラシオンの改良ではなく、全く新しいアペラシオンをゼロから創設するという、フランスワイン史における大きなパラダイムシフトの瞬間であった。

講演会をオーガナイズしたクレマン・ド・ブルゴーニュ生産者組合(UPECB)事務局長のピエール・デデュ・クエディク氏(右)と全国クレマン生産者連盟(FNPEC)会長のドミニック・フュルラン氏(左)
第4章:全国的な連帯とシャンパーニュとの対話
ブルゴーニュの決断は、ドミノ効果となって他の産地へと波及した。ブルゴーニュで練り上げられた厳格な規定書は、全国的なモデルケースとなり、ロワールやアルザスといった他の主要なスパークリングワイン産地も、この新たなクレマンの枠組みに参加する意向を表明した。改革は、一地方の取り組みから、フランス全土を巻き込む一大ムーブメントへと発展していったのである。
しかし、その実現には最後の、そして最大の障壁が残されていた。それは、クレマンという言葉の発祥の地であるシャンパーニュの同意を取り付けることであった。シャンパーニュ生産者にとって、クレマンは自らの歴史と伝統の一部であり、それを他の産地が使用することには当然、抵抗感があった。
交渉はINAOの全国委員会を舞台に行われた。ミシェル・ラテロン氏がその人脈と交渉力を駆使して、粘り強くシャンパーニュ側との対話を続けた。意外にも、シャンパーニュ側はこの提案に戦略的な利点を見出していた。当時、シャンパーニュは世界的な需要の急増により、AOCシャンパーニュ内でブドウ畑の拡張圧力が高まり、対応に苦慮していた。高品質なスパークリングワインを求める市場の受け皿として、クレマンという新しいカテゴリーができれば、シャンパーニュへの過度なプレッシャーを和らげ、同時に自らのブランド価値を維持することに繋がると考えたのである。彼らはクレマンを、最高品質の発泡性ワイン、シャンパーニュと、安価なムスーとの間に位置する、信頼できる高品質なワインカテゴリーとして認めることに合意した。74年2月、INAOの委員会において、ついにシャンパーニュ側から正式な使用許可が下り、クレマン誕生への道筋が開かれた。

