港区・西麻布で密かにウワサになっているBARがある。
その名も“TOUGH COOKIES(タフクッキーズ)”。
女性客しか入れず、看板もない、アクセス方法も明かされていないナゾ多き店だが、その店にたどり着くことができた女性は、“人生を変えることができる”のだという。
タフクッキーとは、“噛めない程かたいクッキー”から、タフな女性という意味がある。
▶前回:「友情にも片思いがあるなんて…」女同士はいつもライバルだったから知らなかった
『お久しぶりです、AN(あん)です。Sneetを訪ねられたと聞きました。私のお店でお会いできないでしょうか?』
そう送ったショートメールには、5分も経たずに返信がきた。『松本です』と言う表題を見た瞬間、どくん、と胸から喉へとせり上がってきた熱を、「ただの文字の羅列」という言葉に変えて吐き出し、ともみはショートメールを開封した。
『ようやく返事をくれましたね。ご希望であれば、そちらのお店で。私の候補日を数日出します』
どんな伝手を使ったのかは知らないが、ともみがSneetにいることを調べて、押しかけたくせに、『ようやく』とは。
― しかも、こちらの都合はお構いなし。
最後に会ってからもう10年近くが経とうとしているのに、他者が自分に合わせるのが当たり前とばかりの不遜な態度は相変わらずで。それがなぜかともみを少し勇気づけた。
結局、『今関わってるドラマがクランクアップしてから』という公子の希望で、メールのやりとりをしてから丁度2週間が経った今夜、19時~と指定された。
― あと、2時間くらいか
ともみが大きく息を吐き呼吸を整えたタイミングで、TOUGH COOKIESの扉が開いた。
「おつかれでーす」
ルビーのハツラツさが、今はなおさら心強くて。今夜、一緒にいてくれることへの感謝をともみは改めて伝えた。
「でもルビー、出勤にはまだだいぶ早くない?」
「ともみさんこそ」
「…なんか、落ち着かなくて」
実は16時前には店にともみの自虐的な笑みを、「大丈夫、今日もめちゃ美人さんだもん」と、ルビーが笑い飛ばしてくれた。
「着替えてきま~す」と、店の奥に向かった背中に、ともみは思う。人の痛みに誰よりも敏感で、誰よりも優しいルビーに、ともみも、そしてTOUGH COOKIESを訪れた女性たちも、どれほど助けられてきたことか。
だからこそあの日。ともみはルビーにこう切り出したのだ。
「この店のルールを変えたくて。ルビーがどう思うかを聞きたいの。まだ光江さんには話してないんだけど…」
大輝に、TOUGH COOKIESをどうしたいのか?と聞かれ、自分自身に問いかけていくうちに――浮かんできたのは、『誰もが入れる店にしたい』という想いだった。
今のTOUGH COOKIESは完全紹介制だ。光江の知り合いか、ミチがSneetで声をかけるか。もしくはともみやルビーの友人。公式なルートはほぼ、この3つだと言える。(清川紗和子のように、権力を使った強引な来店という例外はあったけれど)
― 店への予約を…もっとオープンにできないだろうか。
この街には闘い続けている女性たちが沢山いる。そして苦しいときほど笑って見せる。そんな人ほど、まるでコップの水が突然あふれ出したかのように、心の限界は唐突にやってくる。だれかに助けを求めることもできず、自分の存在を消してしまいたくなったとき。そんな夜に駆け込むことができる場所として。
そして…そんな夜に、ここで待っていてくれるのは――ルビーがいい。
なぜそう想うようになったのかを伝えるために、ともみが言葉を選んでいると、ルビーが「オッケ~」と笑った。
「え?」
「いいよ、どんどん変えちゃって~」
「まだ何の話か、全く説明してないけど?」
「ともみさんがやりたいことなら、全部オッケーだし、内容なんて気にならないもん。なんでもいいよ。なんでも手伝う」
ウィンクを決められれば惚れ惚れしてしまう。ルビーは本当にかっこいい。逞しく、そして、したたかでなければ生き残れないこの街で、弱みを見せることを嫌う女性たちに必要なのは、やはりルビーだ。ともみは改めて清々しく思った。
◆
― この人が――あの松本公子…?
予定の19時を10分ほど過ぎた頃、TOUGH COOKIESのインターフォンが鳴った。「前の打ち合わせが押しちゃって」と、遅れたことを詫びもせずに、言い訳と共に入ってきたその人は、ともみの記憶の中とはあまりにも違っていた。
身なりこそ以前と変わらず、ハイブランドのセットアップ――おそらく彼女が好んでいたセリーヌかサンローラン…で固めてはいるけれど、当時ヨガや筋トレを欠かさず整えていた体にはたっぷりと贅肉がつき、二重顎で顔のラインも緩んでいる。おそらく20キロ近くは増えたのではないだろうか。脂っぽくざらついた肌を化粧で隠しきれておらず、それらは不摂生によるものだと容易に想像できてしまう。
すまし顔のルビーに案内された公子は、カウンター席に座りながら、使い込まれて擦り切れの目立つヴィトンのバッグを、これ見よがしにカウンターテーブルの上に置いた。
「これ。QUINZ(クインツ)の曲が初めて20万枚売れた時、みんなでお金を出し合って買ってくれたバッグ。覚えてる?」
「…ええ、もちろんです」
以前よりしゃがれた声に、ともみは笑みを作る。忘れるわけはない。ともみが所属していたアイドルグループQUINZ(クインツ)の2曲目が予想以上に売れ、誰が言い出したのか、プロデューサーである公子に感謝のプレゼントを選ぶことになったのだ。メンバーとスタッフが、高くはなかった給料から出した数万円。この人が操る“夢”を信じきって傾倒していた幼い自分が、今となれば、ただ哀れだ。
「ビジュアルは全く劣化してないけど……まさかともみが水商売をやるなんてね」
「そうですか?」
「そうよ。だってだれよりプライドが高い子だと思っていたから。元アイドルが水商売なんて…どんな風に言われるか、わかるでしょ?だから意外だった」
水商売を蔑むような公子の言葉に、なんとなくルビーの反応が気になり横目で伺うと、にこやかな笑みを浮かべたまま…だと思ったら、カウンターの下、公子に見えぬ位置で中指を突き立てている。ともみは吹き出しそうになったのをなんとか堪えて公子に意識を戻す。
「私はこの仕事にやりがいを感じていますよ。今、とても」
ふうん、と値踏みするような視線で、ともみとルビーを見比べてから公子は続けた。
「まあ、確かにあなたは昔から要領が良くて器用だったから。空気を読むのも早いし、場を回すのも上手い。大人に好かれる術は心得てたし、サービス業には向いてるのかもね」
「それは、お褒め頂いていると思って宜しいでしょうか」
「もちろん」
昔と変わらず、自分が優位者なのだと疑わない、一方的な物言い。けれど恐ろしさはない、と感じたと同時に、ああ、あの頃の自分はこの人を恐れていたのだと、ともみは改めて思い出した。
公子は「強い酒ならなんでもいい」と言った。ともみが、当時公子が好んでいたウォッカを選び、ストレートで、とルビーに指示すると、酒が出てくるのも待てぬ様子で、公子は切り出した。
「ともみに会いたかったのは、ともみにとってもいい話があるからなのよ。あなたもう一度――こっちの世界に戻ってきなさいよ」
「松本さま…」
「いやだ、昔の呼び方で呼んでよ」
「では――公子さん。お話に入る前にまずご説明させてください」
ともみが姿勢を正すと、ルビーが機密保持契約の書類を公子に差し出した。
「なにこれ?」
「当店では大切なお客様の秘密をお守りするために…店内で見聞きしたことの全てに機密保持契約を発生させることができます。こちらの書類、全ての項目を読んで頂きまして、もしこの契約が必要と感じられたなら、サインをお願い致します」
「…え?」
呆気にとられた公子をさらに促すと、しぶしぶ感を隠さず公子は書類を読み始めた。
「1,000万円!?」
公子の驚きには、興奮となぜか喜びも混じっていた気がしたけれど、ともみは流して頷く。
「はい。当店でのやりとりにつきましては、私とそちらのルビー、さらにオーナーの3人で保持、共有させていただくことになりますが、万が一我々の過失で外部に情報が洩れ、お客様にご迷惑がかかるようなことがあれば、賠償金として最大1,000万円をお支払いさせて頂くというものです」
「この契約内容だと、こっちにはなんのリスクもないし、店側の負担が大きいだけじゃない」
「お客様に安心して過ごして頂くための契約ですから、当然です」
「…この店のオーナーさんって随分、太っ腹なのね。一体何者なわけ?」
ゴクリと喉を鳴らして、何度も「イッセンマン…」と呟き、下世話な笑みを浮かべてサインする公子を眺めながら、ともみは気がついた。
― この人は、紗和子さんとは違う。
アート界のキングメーカー、清川紗和子は、ともみの過去を子役の頃から調べ上げて来店した。おそらく――関係者以外は知ることがなかった、ともみがアイドルグループを抜けた経緯も掴んでいたのではないだろうか。
けれど公子は、なんとかSneetを見つけることはできたものの、ミチに名刺を渡すまでが精一杯で、TOUGH COOKIESにたどり着くことはできなかった。その上、西麻布の女帝の存在を知らないまま来店したというわけだ。
― つまり、小者、だったんだ、この人は。
かつては公子のことを、世界を支配するような、圧倒的な権力者だと信じていた。この人に従わなければ、夢を失うと怯え、この人に人生を奪われたメンバーもいる。でも。
こみ上げたむなしさに、笑顔で蓋をする。それはかつての――無邪気を装うアイドルの笑みではなく、この街の夜を預かる店主としての笑みで。
「と、ともみ…?」
射貫かれた公子が息を呑み、ルビーがカウンターの下で今度は親指を立てた。ともみに向かって誇らしげに。
「では改めまして、当店にお越しくださいましてありがとうございます。TOUGH COOKIESという店名は、タフでしたたかなこの街の女性たちへのリスペクトと、私自身もそうありたいとの願いをこめてつけたものです。
ではお客様――今夜は心ゆくまで、お話しくださいませ」
過去との決別の夜、その始まりに、ともみは凛々しく頭を下げ……もう一度公子へと、とびきりの――西麻布の微笑みを見せた。
▶前回:「友情にも片思いがあるなんて…」女同士はいつもライバルだったから知らなかった
▶1話目はこちら:「割り切った関係でいい」そう思っていたが、別れ際に寂しくなる27歳女の憂鬱
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