
高齢の親が一人暮らしを続けることに、不安を抱く家族は少なくありません。転倒、急病、火の不始末、認知機能の低下。離れて暮らす子どもにとって、老人ホームへの入居は「安全を確保するための選択」に見えることがあります。しかし、本人にとっては住み慣れた家を離れる大きな喪失でもあります。
「ここなら安心だから」…娘が母の入居を決めた日
洋子さん(仮名・62歳)は、90歳の母・文江さん(仮名)を老人ホームに入居させた日のことを、今も忘れられないといいます。
文江さんは夫を亡くしてから、一人で古い持ち家に暮らしていました。年金は月12万円ほど。非課税世帯で、生活に大きな余裕はありませんでしたが、家賃がかからないこともあり、何とか暮らしていました。
「母はずっと、“私はこの家で死ぬから”と言っていました」
しかし、90歳を過ぎるころから状況が変わります。
夜中にトイレへ行く途中で転倒したことがありました。幸い骨折はしませんでしたが、洋子さんは強い不安を覚えました。さらに、ガスコンロの火を消し忘れたこともありました。
洋子さんは仕事をしながら、週末ごとに母の家へ通っていました。
「でも、毎日は見に行けません。電話に出ないだけで、心臓が止まりそうになるんです」
総務省『家計調査(2025年)』によると、65歳以上の単身無職世帯では、可処分所得が月11万8,465円、消費支出が月14万8,445円で、平均では毎月赤字です。高齢単身世帯は、家計面でも生活面でも不安を抱えやすい状況にあります。
洋子さんはケアマネジャーに相談し、介護付き有料老人ホームへの入居を検討しました。
費用は年金だけではぎりぎりで、足りない月は洋子さんが補う必要がありました。それでも、夜間も職員がいる環境は安心に思えました。
「母のためだと思って決めたんです」
入居の日、文江さんは小さなバッグを握りしめ、何度も玄関を振り返りました。
「また戻れるんだよね?」
洋子さんは、とっさに答えられませんでした。
入居から数週間後、洋子さんが面会に行くと、文江さんは部屋の椅子に座っていました。食事も出る。入浴介助もある。夜間の見守りもある。家族から見れば、安全な環境でした。
しかし、文江さんはぽつりと言いました。
「もう家には帰れないの?」
その目には涙が浮かんでいました。洋子さんは胸が詰まりました。
「もう家には戻れないの?」…安全と納得の間で揺れた娘
施設の対応に大きな不満があったわけではありません。職員も親切で、生活は整っていました。それでも文江さんにとって、そこは“自分の家”ではありませんでした。
長年使ってきた台所。庭の植木。近所の人とのあいさつ。仏壇の前で過ごす朝の時間。それらを急に失ったことが、文江さんには重くのしかかっていたのです。
厚生労働省『令和5年介護サービス施設・事業所調査』によると、介護老人福祉施設は8,548施設あり、介護施設は多くの高齢者の生活を支える重要な受け皿になっています。 一方で、入居は本人の生活環境を大きく変える決断でもあります。
洋子さんは、何度も自分に問いかけました。
「本当にこれでよかったのか」
もちろん、在宅生活に戻るには課題があります。転倒対策、見守り、配食、訪問介護、火の管理。娘一人で支えるには限界がありました。
その後、洋子さんは施設相談員やケアマネジャーと話し合い、月に数回は母を自宅へ連れて帰る時間を作ることにしました。短い滞在でも、文江さんは仏壇に手を合わせ、庭を眺め、少し表情を和らげるといいます。
「家に戻すことだけが正解ではない。でも、家を完全に失わせる必要もなかったのかもしれません」
老人ホームへの入居は、家族の安心につながる大切な選択です。ただし、安全な場所に移ることと、本人が納得して暮らせることは同じではありません。
「あの日、もっと母の気持ちを聞けばよかった」
洋子さんの後悔は、施設に入れたことそのものではありませんでした。母にとっての“家”が何を意味していたのかを、入居後にようやく知ったことだったのです。
