
定年後は、夫婦でゆっくり暮らす。そう考えている人は少なくありません。子育てが終わり、住宅ローンも落ち着き、退職金が入れば、ようやく夫婦二人の時間が戻ってくるようにも見えます。しかし、長年のすれ違いが解消されないまま老後に入ると、思わぬ形で関係が崩れることがあります。
「老後は二人で」…そう思っていた妻に夫が告げた言葉
弘樹さん(仮名・65歳)は、長年勤めた会社を定年退職しました。退職金は約2,800万円。年金見込み額は月21万円ほどです。
妻の美智子さん(仮名・63歳)は、結婚後に仕事を辞め、専業主婦として家庭を支えてきました。子どもは二人。すでに独立しています。
美智子さんは、夫の退職後について、どこか前向きに考えていました。
「これからは旅行に行ったり、家の片づけをしたり、少しずつ二人の時間を取り戻せると思っていました」
ところが、退職から数ヵ月後の夜、弘樹さんは食卓で突然こう言いました。
「悪いけど、これからは別々に暮らしたい」
美智子さんは、冗談だと思いました。
「どういうこと?」
弘樹さんは、静かに続けました。
「離婚までは急がなくていい。でも、もう一緒に暮らすのは疲れた」
美智子さんは言葉を失いました。夫婦仲が特別良かったわけではありません。現役時代、夫は仕事中心で、家事や育児はほとんど美智子さんが担っていました。会話が少ない時期もありました。
それでも、美智子さんは「そういうもの」として受け止めてきたのです。
「今さらそんなことを言われるとは思いませんでした」
さらに衝撃だったのは、お金の話でした。
弘樹さんは退職金の大半を、自分名義の口座に移していました。美智子さんが把握していた夫婦の生活口座には、想定より少ない金額しか残っていなかったのです。
「え、これだけ?」
美智子さんは通帳を見て、手が震えたといいます。
総務省『家計調査(2025年)』によると、65歳以上の夫婦のみ無職世帯では、可処分所得が月22万1,544円である一方、消費支出は月26万3,979円となっており、平均では毎月赤字です。年金月21万円だけでは、夫婦二人の生活費をまかなうには厳しい可能性があります。
美智子さんにとって、退職金2,800万円は夫婦の老後資金でした。しかし弘樹さんは、「自分が働いて得たお金」という意識が強かったのです。
「何を頼りに暮らせばいいの?」…急に突きつけられた老後不安
美智子さんは、夫に問いかけました。
「私の生活費はどうなるの?」
弘樹さんは、少し面倒そうに答えました。
「年金が入るし、必要な分は渡す。困らせるつもりはない」
その言葉に、美智子さんは強い不安を覚えました。必要な分とは、誰が決めるのか。住まいはどうするのか。医療費や介護が必要になったときはどうなるのか。
専業主婦だった美智子さんには、自分名義の大きな収入や資産はほとんどありませんでした。
「家族のために働いてきたつもりでした。でも、通帳を見た瞬間、自分には何もないように感じたんです」
離婚時の財産分与では、婚姻中に夫婦が協力して築いた財産は、名義にかかわらず分与の対象になり得ます。退職金についても、婚姻期間中の労働に対応する部分は、夫婦共有の財産として考慮されることがあります。ただし、実際には離婚の有無や時期、財産状況によって判断が分かれるため、専門家への相談が必要です。
美智子さんは、弁護士の無料相談を利用しました。そこで初めて、自分にも確認すべき権利や選択肢があると知ります。
「夫に出て行けと言われたら終わり、ではないんだと分かって、少し胸のつかえが取れました」
現在、美智子さんは夫と別居するかどうかを含め、生活費や財産の整理について話し合いを続けています。
「夫と一緒に暮らし続けたいのか、自分でもまだ分かりません。でも、少なくとも、お金のことを知らないまま従うことはできないと思いました」
老後の夫婦関係は、お金だけで決まるものではありません。しかし、お金の情報が共有されていなければ、一方だけが不安を抱えることになります。
退職金は、夫一人の“ご褒美”ではなく、夫婦がこれからどう暮らすかを考えるための資金でもあります。何に使い、どこまで共有するのかを、老後に入る前から話し合っておくことが大切なのかもしれません。
