「仕事」と「介護」で板挟みに…悩んだ結果、離職を選択
胃を半分ほど切除した母親は、徐々に通常の食事に戻していくが、その過程でなかなか胃がうまく働かず、食べてもすぐに戻してしまい、約2ヶ月の入院の間に10キロほど痩せてしまった。それでも退院の日を迎えると、高蔵さんはあらかじめ契約しておいた訪問看護を週3回利用し、それ以外の日はデイサービスを入れて母親のケアに努めた。
しかし母親が認知症と診断されてからというもの、高蔵さんは長い間、頭を悩ませていた。
「ずっとやってみたかった企業の人事の仕事についた矢先に、母の認知症と胃がんが判明。認知症の母は、自分ががんだと告知されても理解できず、健康な人と同じ行動をしようとするのが厄介でした。私の仕事は出張が多く、まだコロナが始まったばかりだったため、リモートワークに対応していません。介護休業や介護休暇などのことはある程度知っていましたが、まだ就職して数ヶ月でしたし、会社の人事担当者が私しかいなかったので、とても休みたいと言い出せる状況ではありませんでした」
勤務中も出張中も母親のことを思い出すと不安に襲われることがしばしば。通勤途中に満員電車に乗れば、母親に感染症を持ち帰ってしまうのではないかという心配にも苛まれる。
「40代に入っていた私は、今辞めてしまったら、次の職がすぐ見つかる可能性が低いのではないかという不安もありました。しかし同時に、母が私の支援とケアを必要としていることを理解していましたし、一人っ子である私は、それに応えることが優先事項であるという確信も持っていました」
2020年6月。筆者は離職以外の方法を選択して欲しかったが、高蔵さんは離職という決断を最終的に下した。
自分のお金・時間を犠牲に介護しても、認識すらされないやるせない日々
離職した高蔵さんは、まずは母親の認知症を理解することに努めた。
「私は、元気だった頃の母との対話を取り戻すことを願っていましたが、現実は違いました。離職後、介護の日々はますます厳しくなり、私は母の日常的なケアに全力を尽くしましたが、それでも限界を感じることがありました。そして認知症の進行とともに、母はどんどん他人に依存するようになっていきました」
同じことを何度も聞かれることにうんざりすることは頻繁にあった。うんざりした様子を察したのか、母親は「子どもなんだから親の介護をするのは当たりまえ!」と口にすることもあった。
その一方で、まだ自分でトイレも食事も入浴もできている母親だったが、食べる順番や服を脱ぎ着する順番などを近くで教えないとできないにもかかわらず、何もかもすぐに忘れてしまう母親は、「全部1人でできている!」と豪語していた。自分のお金や時間を犠牲にして介護している高蔵さんにとって、してあげていることを認識されないことや感謝もされないことは、やるせないことだった。
「離職と介護の両立は、経済的な負担も伴います。仕事を離れることで収入が減少し、生活費や医療費などの負担割合が増大しました。この状況は私にとって大きなストレスであり、不安と絶望感に苛まれる日々が続きました。しかしこの難しい状況の中で、私は多くのことを学ぶことができました。これまで私が母に任せっきりで、全くしてこなかった家の財政管理について、状況を把握することができたこともその一つです」
離婚後は無職、収入源は国民年金のみ…母の財政事情
父親との離婚後、母親は全く働いておらず、わずかな貯金だけで生活していた。高蔵さんが実家に戻ってきてからは、高蔵さんが入れてくれるお金と貯金で生活しており、60歳からは国民年金が受給されていた。
「母には国民年金しかなく、まだ老後が続くと考えると、私がお金を入れなければ、生活できない貯金額しかありませんでした。それを知った私は、国の制度や地域の支援ネットワークの重要性を学びました。そして、介護者としての役割を果たすことの尊さと責任を痛感。働いていた時は出張も多く、母と向き合う時間をあまり持ってこなかったのも事実です。介護離職は決して容易な決断ではありませんでしたが、その結果、私は母との貴重な時間を共有することができました。認知症が進行する母との時間があまり残されていないことを強く意識するたびに、離職して良かったのだと思います」
