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20歳で急死「巨人ドラフト1位投手」の悲劇 “栄光のV9”の影で…「湯口事件」問われなかった現場責任

20歳で急死「巨人ドラフト1位投手」の悲劇 “栄光のV9”の影で…「湯口事件」問われなかった現場責任

プロ野球・読売ジャイアンツの阿部慎之助監督(当時)が、2026年5月25日夜、家族への暴行容疑で現行犯逮捕され、翌26日、監督を辞任した。

当該事件は世間の人々が家庭内暴力について考えるきっかけとなり、一方で、球界に残るパワハラ指導や暴力的な体質にも改めて目を向けさせた。

かつて球界を含むスポーツ界では、暴力が「鉄拳制裁」「熱血指導」と美化された。指導者が選手を罵倒し、人格さえ否定するようなことも珍しくなかったとされる。

現在でもプロ・アマ問わず、指導の名を借りた暴力や圧力が問題になることはしばしばある。その象徴的な出来事として、いま見直すべき一件がある。

1970年秋のドラフトで巨人から1位指名を受けた投手が、一度も1軍のマウンドに立つことなく精神的な不調を来し、1973年、20歳の若さで急死した。この出来事は、俗に「湯口事件」と呼ばれる。(ライター:ミゾロギ・ダイスケ)

巨人ドラフト1位・湯口敏彦と「高校三羽ガラス」

11月9日付『朝日新聞』夕刊は「南海、島本を指名 巨人は湯口、広島は佐伯」と報じている。

春のセンバツを制した箕島高のエースで4番の島本講平、名門・広陵高の右腕でセンバツ4強の佐伯和司、そして夏の甲子園で強烈な印象を残していた湯口敏彦。3人は「高校三羽ガラス」と呼ばれ、同年の高校球界を代表する投手たちだった。

湯口は岐阜短大付属高のエースとして夏の甲子園に出場し、2回戦で島本の箕島高を6-1で破り、準々決勝では東邦高を2-0で下してベスト4に進出した。春の王者を倒した左腕として、湯口に対するプロ側の評価は高まった。

そして、川上哲治監督のもとで王貞治と長嶋茂雄を擁し、同年にV6を達成した常勝球団に迎えられたのである。

当時の巨人投手陣には、堀内恒夫をはじめ高橋一三、渡辺秀武ら主力がいた。翌年には関本四十四も台頭する。甲子園を沸かせた左腕の指名は、即戦力としての期待ではなく、数年後を見据えたものだったと考えられる。

同じ「高校三羽ガラス」でも、プロ入り後の道は分かれた。南海の島本講平は野手として起用され、1年目から1軍に出場。広島の佐伯和司はルーキー年に4勝、2年目に6勝。

他の投手やチームの状況など、球団事情の違いが、そのまま起用法の違いになった。湯口は1年目、2年目ともに1軍登板はなかった。ただ、教育リーグでは完投勝利を挙げ、12奪三振を記録した試合もあったとされる。速球の力は見せていたが、制球には課題が残った。

もっとも、2年間の“1軍登板なし”は、ドラフト1位とはいえ、高卒投手として取り立てて異常な出遅れではなかった。

紅白戦での乱調と突然の急死報道

湯口の入団2年目となった1972年、巨人は日本シリーズ8連覇を達成。この年のドラフトでも、巨人は1位、2位に高校生投手を指名している。

シーズンオフに入り、球団は湯口をファンにお披露目する機会を設けた。11月23日、巨人軍ファン感謝デーの紅白戦でマウンドに上げたのである。しかし、ここで湯口は打ち込まれ、芳しい結果を残せなかった。以後、湯口は表舞台から消えた……。

明けて1973年3月23日、新聞各紙にこんな見出しが躍る。

「湯口投手(巨人)が急死」

湯口は前日22日の午後5時15分ごろ、東京・新宿区内の病院で亡くなっていた。

報道によれば、湯口は紅白戦で打ち込まれたあと、中尾碩志(ひろし)2軍監督に叱責(しっせき)され、以後、当時の言葉でいう“ノイローゼ状態”に陥っていたとされる。“うつ病”と整理する後年の資料もある。

その背景に、球団内の指導体制があったとしても、一度の叱責だけで説明できる問題ではないだろう。厳しい寮生活、2年間の1軍登板なし、常勝巨人で結果を求められる重圧、制球難への不安。そうしたものが段階的に重なっていた可能性もある。

しかし、湯口の所在や病状をめぐっては、球団周辺に箝口令が敷かれていた。球団が説明を避けるなか、ドラフト1位投手の不可解な不在を、訃報が伝わる以前より、煽情的な憶測とともに「蒸発」「失踪事件」として報じていた媒体もあった。

さらに、死後の報道で明らかになったことがある。精神的不調が見られた湯口は同年1月に一度、精神科系の医療機関に入院。復帰の第一段階として、2月15日に多摩川グラウンドでの練習に参加し、19日には都城の2軍キャンプへ向かったものの、現地で元の状態に戻り、再び入院していたのだ。

湯口はなぜ死んだのか? 病院側は死因を「心臓マヒ」と説明した。「ポックリ病」と表現する関係者もいた。だが、「心臓マヒ」は心臓が止まったという結果に近く、具体的な死因を示す言葉ではない。「ポックリ病」は俗称である。

そもそも、精神的な不調と突然の心臓マヒはすぐには結びつかない。20歳のプロ野球選手が入院先で急死したということで、自死を疑う報道もみられた。

だが、病院側が自死を否定し、警察も事件性なしとして処理したことで、ドラフト1位で巨人入りした20歳の若者の死は、テレビや新聞などの主要メディアで長期的に深く追及されることはなかった。

『週刊ポスト』が追った巨人の指導体制

そのなかで『週刊ポスト』(小学館)は、そもそも湯口が精神的に不調を来した原因はどこにあったのか、対応に不備はなかったのか、巨人の指導体制を問題視しながら、連続して記事を展開していった。

もっとも、同誌は球団側の説明不足や不誠実な対応を問うていたが、筆致は、「巨人、読売、川上、中尾は許せない!」と徹底的にバッシングするものではなかった。

「巨人の責任で若い選手が死んだ」とは断定できないことも一因ではあるだろう。しかし、それ以上に、当時の巨人はプロ野球そのものの中心にある存在であり、最強のコンテンツだったことも大きいのではないだろうか。

栄光のV9と問われなかった現場責任

「湯口事件」を、今日の視点から俯瞰(ふかん)してみよう。

まず、湯口の死因と、精神状態が不安定になった背景は切り分ける必要がある。また、その原因を巨人だけに求めることもできない。本人の内面や私生活に、報道では見えていない事情があった可能性もある。

しかし、巨人の管理下にあり厳しい環境に置かれていた20歳の選手が、精神的に不調を来し、入院したという事実は残る。さらに、一度入院した湯口を、短期間で練習の場へ戻した対応が適切だったのかも疑問である。

今日なら、これらの対応は問題視され、球団は世論に押されるかたちで第三者委員会の設置を迫られて、真相究明が行われるだろう。パワハラや暴行が認定されれば、現場責任者の辞任が求められるに違いない。

なお、スポーツ紙に掲載された川上談話として、極めて冷淡な言葉も伝えられている。それは、「巨人こそ大被害を被った」「女性を乗せた交通事故ではなかったことが、せめてもの救いだった」という旨だった。

しかし、当時は、暴力を伴う厳しい指導が否定される時代ではなかった。学校でも教師が生徒を殴り、スポーツ指導の現場でも、しごきが教育や鍛錬として受け止められていた。言葉の暴力も許容された。

巨人を批判するムードはあったものの、川上、中尾がその矢面に立ち、厳しく責任を問われるようなことはなく、この件で職を追われることもなかった。川上はそのまま指揮を執り、巨人は1973年にV9を達成する。中尾も2軍監督の立場にとどまった。

ただし、湯口事件の余波は、同年秋のドラフトにも及んだ。1973年秋、巨人は1位で愛知学院大の小林秀一、2位で糸魚川商工高の黒坂幸夫を指名した。しかし、上位指名の2人はいずれも入団を拒否する。さらに3位、5位の選手も入団せず、巨人は異例の大量拒否に見舞われた。

理由は選手ごとに異なるが、湯口事件の影響が指摘された。とりわけ黒坂は後年、「湯口事件も入団拒否の理由のひとつだった」と語っている。

湯口事件を経ても、球界の体質がすぐに変わったわけではない。暴行や厳しい叱責は、その後も長く容認され続けた。これはプロ野球に限った話ではない。

今回の阿部元監督の事件についても、家庭内の話とはいえ、もし1970年代に起こっていたなら、監督辞任どころか、そもそも逮捕には至らなかったのではないだろうか。

■ミゾロギ・ダイスケ

昭和文化研究家、ライター、編集者。スタジオ・ソラリス代表。大学の文学部を卒業。スポーツ雑誌、航空会社機内誌の編集者を経て独立。『週刊大衆』をはじめ、各媒体で執筆活動を続ける。犯罪、芸能全般、スポーツ全般、日本映画、スキー、プロレスなどを守備範囲とするが、特に昭和文化研究はライフワークだ。著書に『未解決事件の戦後史』(双葉社)。

配信元: 弁護士JP

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