
老後資金は、長く続く暮らしを守るために欠かせないものです。医療費や介護費、物価上昇への不安を考えれば、慎重に使う姿勢は大切です。しかし、必要以上に支出を恐れるあまり、旅行や趣味、人との交流まで控えすぎてしまうと、後になって「もう少し楽しめばよかった」と感じることもあります。
「減らすのが怖い」…貯蓄4,500万円でも使えなかった夫婦
達郎さん(仮名・72歳)と妻の和子さん(仮名・70歳)は、夫婦で月27万円ほどの年金を受け取っていました。自宅は持ち家で、住宅ローンも完済済み。退職金と現役時代からの貯蓄を合わせ、金融資産は約4,500万円ありました。
数字だけを見れば、老後資金に大きな不安がある家庭ではありません。それでも達郎さんは、通帳の残高が減ることを極端に嫌がりました。
「年を取ったら、何があるか分からない」
「介護が必要になったら、一気にお金が出ていく」
「旅行なんて、もっと余裕がある人がするものだ」
和子さんが温泉旅行を提案しても、達郎さんは首を縦に振りませんでした。外食も月に一度あるかどうか。家電が古くなっても「まだ使える」と買い替えを先延ばしにし、夏の冷房も冬の暖房も控えめでした。
和子さんは、ときどき寂しそうに言いました。
「元気なうちに、少しは出かけたいね」
しかし達郎さんは、そのたびに家計簿を見せました。
「今は大丈夫でも、10年後、20年後は分からないだろう」
総務省『家計調査(2025年)』によると、65歳以上の夫婦のみ無職世帯では、可処分所得約22.2万円に対し、消費支出は約26.4万円で、平均では毎月約4.2万円の不足となっています。年金生活では、日々の生活費だけでも貯蓄を取り崩す世帯が少なくありません。
達郎さんが不安を抱くこと自体は、決して不自然ではありませんでした。
金融広報中央委員会『家計の金融行動に関する世論調査(2023年)』でも、老後の生活について「心配である」と答えた世帯は約8割に上り、その理由として「十分な金融資産がないから」「年金や保険が十分ではないから」「物価上昇への不安」などが挙げられています。
ただ、達郎さん夫婦の場合、不安が強すぎました。
友人夫婦から旅行に誘われても断る。孫と外食に行っても、一番安いメニューを選ぶ。趣味の講座に通いたいという和子さんにも、「月謝がもったいない」と言ってしまう。
貯蓄は守られていました。けれど、夫婦の会話は少しずつ減っていきました。
「お金は残った。でも時間は」…妻の入院後に気づいたこと
変化が訪れたのは、和子さんが体調を崩したころでした。
腰の痛みが強くなり、長く歩くことが難しくなったのです。以前は「行ってみたい」と話していた京都の寺社巡りも、北海道の花畑も、現実的には難しくなりました。
ある日、テレビで温泉旅館の特集を見ていた和子さんが、ぽつりと言いました。
「行けるうちに、行っておけばよかったね」
達郎さんは、返す言葉がありませんでした。
通帳には、まだ十分なお金が残っていました。けれど、二人で気軽に遠出できる体力は、以前ほど残っていませんでした。
内閣府『令和7年版高齢社会白書』では、直近1年間に何らかの社会活動に参加した65歳以上の人のうち、生きがいを「十分感じている」または「多少感じている」と答えた人は84.6%で、いずれの活動にも参加しなかった人を23.0ポイント上回っています。
もちろん、社会活動や旅行にお金を使えば必ず幸せになるわけではありません。ただ、人と会う、外へ出る、興味のあることを試すといった経験は、老後の暮らしに張り合いを与えることがあります。
達郎さんは、ようやく自分たちのお金の使い方を見直しました。
介護費や医療費に備える資金は別に確保する。そのうえで、毎年いくらまでなら旅行や趣味に使ってよいかを決める。和子さんが通える近場の講座を探し、月に数回は外食をする。大きな旅行は難しくても、近場のホテルに一泊することから始めました。
老後資金は、長く続く暮らしを守るためのお金であり、同時に、残された時間をどう過ごすかを支えるお金でもあります。
医療や介護への備えは必要です。物価上昇への不安も無視できません。
それでも、健康で動ける時間には限りがあります。お金を守ることに意識が向きすぎると、使えば得られたはずの経験や会話まで失ってしまうことがあるのです。
