ただ東京で生まれたというだけで何かを期待されるか、どこかを軽蔑されてきた気がする――。そんな小説家カツセマサヒコが“アウェイな東京”に馴染むべくさまざまな店を訪ねては狼狽える冒険エッセイ。今回の舞台は、武蔵小山の商店街の奥にある洋食屋「さんきち」。黒板を埋め尽くすメニューの海に放り込まれた著者は、脳内のジョブズを阿鼻叫喚させながら、それでも悩む時間を愛している。願いは今日も「すこしドラマになってくれ」
◆ジョブズ連れていきたい【武蔵小山駅・さんきち(洋食屋)】vol.33
かなり有名な話だが、アップルの創業者であるスティーブ・ジョブズは同じ洋服ばかり揃えることで「服を選ぶ」という毎日の意思決定の手間を省いていたという。日々は判断の連続。その回数を少しでも減らすことで本当に重要な場面で脳がしっかりと機能するようにしていたらしい。続いてまったく無名な話だが、私はメニュー数がむちゃくちゃ多い飲食店で一番食べたいものをじっくり考える時間が、大好きである。
たとえばファミレスに行き、多種多様すぎるメニューと対峙するとき、大量のアドレナリンが分泌される。胃や舌と真剣に対話を重ね、本当に納得いく一品を選んで口にした瞬間、毛穴という毛穴からファンファーレが鳴り響く。
「オーマイガ。なんて無駄な意思決定なんだ!」
脳内のジョブズが叫びながらiPhoneを地面に叩きつける。そんな彼の肩に手を置いて、私は言う。
「ヘイ、落ち着けよジョブズ。この無意味な意思決定こそ、人生の醍醐味なんだぜ?」
品川区に、ジョブズを連れていったら錯乱しそうな店がある。
洋食屋「さんきち」。東急目黒線の武蔵小山駅から長いアーケードを歩き、途中で左折した先にある、昔ながらの小さな飲食店である。
店に入る手前、入り口のドアの脇に、小さな文字で料理名がぎっしりと書かれた黒板がぶら下がっている。一枚だけなら可愛いが、これがドアの両脇にあり、さらに足元まで連なって埋め尽くしているので、かなり圧を感じる。
あんなにたくさんのメニューがあったら、作るほうも大変だろうなあ、などと思いながら扉を開けると、そこには家庭的な温かさを放つ古き良き洋食屋の光景が広がっていてほしかったわけだが、そして実際に広がっていたのだが、それ以上に目に焼き付いてしまうのは、やはりメニューの量なのである。
「え? ここ、予備校?」
高校時代に通っていた予備校に、とにかく板書の量が多い世界史の先生がいた。ノートに写すだけで精いっぱいだったあの圧倒的情報量が再現されたかと思うほど、黒板に書かれたメニューが、店を埋め尽くしているのである。
「ジャンボとんかつ」といったシンプルなものから「ハンバーグと串かつ2本・おこのみでかきフライ、マグロかつ、エビフライまたはホタテ貝柱フライ」といった長すぎるメニューまで、ほぼ手書きで隙間なく書かれており、それが店の奥まで続いている。この情報の海から、胃や舌にとって最善の選択肢を探し出すのだ。難解なミッションを前に、脳内のジョブズが阿鼻叫喚している。
私は悩んだ。じっくり悩み、時間をかけて、「盛り合わせサラダ・三色コロッケ定食」を選ぶことに成功した。体中が、「間違いなくそれだ」と叫んでいた。
ごはん、みそ汁、漬物、サラダが付いたコロッケ定食が、程なくして運ばれてくる。白米は漫画みたいに茶碗から溢れており、コロッケはタワシサイズが3つ。あまりの量に驚き、辺りを見回すと、洗面器みたいな大きさの丼に挑んでいる大食漢が目に入り、噴き出しそうになった。なんでも多くて、デカい店なのだ。
では、味はどうか。コロッケを頬張ってみる。これが、大正解を叩き出している。求めていた味がそこにある喜び。ファンファーレが鳴り響く。意思決定に成功したのである。
大満足の帰り道、引き受けるべき仕事を誤って断ってしまい、判断力の低下をまんまと実感する瞬間があった。
ジョブズが「ほれみろ」とドヤ顔をしている。私は中指を立て、コロッケの味を思い出しながら歩いた。

―[すこしドラマになってくれ~いつだってアウェイな東京の歩き方]―
【カツセマサヒコ】
1986年、東京都生まれ。小説家。『明け方の若者たち』(幻冬舎)でデビュー。そのほか著書に『夜行秘密』(双葉社)、『ブルーマリッジ』(新潮社)、『わたしたちは、海』(光文社)などがある。好きなチェーン店は「味の民芸」「てんや」「珈琲館」

