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殺人事件、逮捕されても「4人に3人」は不起訴だが…世論の誤解を生みだすメディア報道の“物語化”

殺人事件、逮捕されても「4人に3人」は不起訴だが…世論の誤解を生みだすメディア報道の“物語化”

テレビを見ていると、見知らぬ人による無差別殺人ばかりが取り上げられているように感じませんか? ひとたび発生すると連日報道される通り魔的犯行。しかし、実際の殺人事件の多くは、被害者にとって「顔見知り」である人物によって引き起こされています。

警察庁の犯罪統計によれば、日本における殺人事件の約85%は、家族や元交際相手、職場の関係者や知人など、被害者と面識のある人物によるものです。つまり、私たちが最も恐れる「見知らぬ人による突然の殺人」は、実際には全体の15%程度に過ぎないのです(【図表】参照)。

【図表】殺人の被疑者と被害者の関係別検挙状況(令和5年(2023年))(出典:令和6年(2024年)版 警察白書 P49)

さらにいえば、この面識ある人物による殺人の約半数は家族内で発生しています。配偶者間、親子間、兄弟間と最も身近な存在による殺人が、実は最も一般的な形態なのです。

では、なぜメディアは「通り魔」的事件を大きく報じるのでしょうか。それは単純に、こうした事件が「予測不可能な恐怖」という強い感情を呼び起こし、視聴率や販売部数に直結するからです。誰にでも起こりうる恐怖として描かれる無差別殺人は、視聴者の関心を引きやすい素材なのです。

しかし、こうした報道の偏りが、私たちの安全への感覚を歪めています。本当に警戒すべきは見知らぬ人ではなく、身近な人間関係のなかにあるかもしれない危険信号なのです。多くの家族間殺人事件には、事前にDVや虐待などの前兆が見られます。そうした兆候を社会が見逃さない仕組みこそ、殺人を防ぐための重要な鍵となるでしょう。(野田 隼人(弁護士、龍谷大学法学部非常勤講師))

※本記事は野田隼人・堀田周吾 著「事件・裁判報道の『深層』を読む技術」(現代人文社)より一部抜粋・構成しています。(連載第3回/全5回)

メディアによる事件の「物語化」とセンセーショナリズム

「犯人は高校時代から周囲となじめない性格だった」。犯行後、メディアは事件を「物語」として再構築し始めます。アテンション・エコノミーのなかにあるメディアにはこのような物語は便利なのです。しかし、そうした単純化された物語のなかで、事件の核心はしばしば失われていきます。

大きな殺人事件が起きると、メディアは犯人の生い立ちや性格、人間関係を掘り下げ、「なぜ」を説明しようとします。元同級生や遠い知人のコメントが集められ、犯行に至る「物語」が作られていきます。しかし、この過程で多くの重要な要素が切り捨てられ、単純化されていくのです。

たとえば、社会的・経済的背景、精神疾患の可能性、複合的な要因など、事件の本質に関わる複雑な要素は、センセーショナルな「物語」のなかで軽視されがちです。「いじめられっ子が復讐した」「孤独な男が暴走した」といった単純なフレームに収められると、事件の真の原因や社会的背景への視点が失われます。

特に問題なのは、この「物語化」によって事件の核心である、具体的な状況や背景、社会構造の問題などが見えなくなることです。視聴者は物語に没入することで、事件を個人的な「異常性」の問題として片づけてしまい、社会全体で考えるべき問題への視点を失います。

真に理解すべきは、殺人事件の背後にある複雑な要因の絡み合いです。単純な「物語」ではなく、多角的な視点から事件を捉え、社会全体の問題として考える姿勢が求められています。

「殺すつもりはなかった」といっても

「殺すつもりはなかった」との供述が報道されると、このこと自体で世論が過熱する場合があります。捜査段階のこのような供述の報道にどれほどの意味があるのかはさておき、「殺すつもりはなかった」こう主張すれば殺人罪には問われないと考える人は少なくありません。

しかし、法律上の「殺意」と一般的に考えられる「殺意」には大きな隔たりがあります。

日本の刑法において、殺人罪が成立するためには故意が必要です。しかし、この故意は一般に想像されるような「殺してやろう」という明確な意図だけを指すわけではありません。

法律上は「人を死亡させる結果を認識しながら行為に及んだ」という「未必の故意」でも殺意は認められるのです。

たとえば、「死ぬかもしれないと思ったがそうなってもかまわないと思って行為に及んだ」場合、たとえ明確に「殺してやろう」と思っていなくても、法的には殺意があると判断されることがあります。この未必の故意の概念は、一般には理解されにくく、メディア報道でも十分に説明されません。

さらにいえば、殺意の有無は、実際の法廷では、行為の客観的状況から推認されることが多く、被告人の主観的な弁明だけで判断が否定されることは少ないのです。

具体的には、凶器の種類・用法、創傷の部位・程度、動機の有無、犯行後の行動を総合して殺意の有無は判断されます。

「殺すつもりはなかった!」という叫びが決定的な転換点になるのはフィクションだけで、明らかに人が死ぬような行動を、それとわかって取っていながら「殺すつもりはなかった」といっても通りません。

殺意の認定は、法的には高度に専門的な判断であり、単純な「殺すつもりがあったか、なかったか」という二分法で捉えられるものではありません。しかし、こうした法的概念の複雑さがメディアで正確に伝えられることは稀であり、多くの人が誤った理解のまま殺人事件を見つめているのが現状です。

殺人の検挙率と起訴率

「殺人で犯人が逮捕されたら、その犯人は刑務所に行くことになる」と考える人も多いでしょう。たしかに、日本の有罪率は約99%と高いのですが、逮捕されたすべての人が起訴されるわけではありません。そして、起訴されないケースがメディアで大きく報じられることはまれです。

日本の司法制度は、検察が「有罪になる高度の見込みがある」と判断した場合にのみ起訴する運用になっています。つまり、逮捕されても証拠が不十分であったり、何らかの事情で有罪が不確実視されたりすれば、不起訴となり裁判にすら進まないケースも少なくないのです。

警察庁の統計によれば、過去10年の殺人事件の検挙率は約95%と高い水準にありますが、起訴率はそれより大幅に低くなっています。

2010年以後40%を超えた年はなく、2021~2023年の3年は23.5%、30.5%、27.4%と、3分の1から4分の1だけが起訴されているという状況です。証拠不足、正当防衛や過剰防衛の可能性、心神喪失の疑いなど、さまざまな理由で不起訴となるケースがあるのです。

この「起訴の選別」は日本の司法制度の特徴であり、起訴された事件の有罪率が極めて高い理由のひとつでもあります。しかし、この側面がメディアで十分に報じられることは少なく、「逮捕=有罪」という誤ったイメージが形成されがちです。

特に問題なのは、大々的に報じられた逮捕が不起訴となった場合、その続報は小さく扱われるか、まったく報じられないことがあるという点です。こうした報道の非対称性が、司法プロセスに対する誤解を助長しています。

実際の司法プロセスは、メディアが描く「ドラマチック」な展開とは異なる、地道で複雑なものです。逮捕、起訴、公判、そして判決に至るまでの各段階で、さまざまな法的判断と検討が行われているのです。

事件の本質を多角的に捉える視点の必要性

私たちが「知っている」と思っている殺人事件の姿は、実はメディアのフィルターを通した一部の側面に過ぎません。通り魔よりも身近な人による事件が多いこと、センセーショナルな「物語」の背後にある複雑な要因、法的概念の複雑さと一般的理解のギャップ。こうした現実を知ることは、殺人事件を正しく理解する第一歩となるでしょう。

事件の本質を理解するためには、メディアが提供する単純化された「物語」を超えて、多角的な視点から事件を捉える姿勢が必要です。そのためには、法制度や司法プロセスへの理解を深め、報道されない側面にも目を向ける必要があり、その際、アテンション・エコノミーの外にある公式な統計情報が役立ちます。

殺人事件は決して「他人事」ではなく、社会全体で考えるべき問題です。メディアのフィルターの向こう側にある事実に目を向けることで、より安全な社会への道筋が見えてくるのではないでしょうか。


■野田 隼人(のだ はやと)
弁護士、龍谷大学法学部非常勤講師。
1981年大阪府生まれ。2003年、上智大学法学部卒業。2008年、東北大学法科大学院修了。2009年、弁護士登録。2025年、京都大学法学研究科博士課程退学。この間、京都産業大学法科大学院、京都大学法科大学院などで教育にあたったほか、日弁連・刑事法制委員会委員、同・刑事弁護センター幹事、同・立会実現委員会委員、同・司法制度調査会委員(商事部会・独占禁止法特別委嘱)、同・AI戦略WG委員などを務めている。

配信元: 弁護士JP

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