信州大学特任教授の山口真由氏は、阿部慎之助氏が不起訴となったことで事件は一区切りついたが、家庭内暴力に行政がどう介入すべきかという論点は残されたままだとみる。そのうえで、被害者の安全確保までは一定の「拙速な過剰介入」は許容されても、その後は「事実を見極めるという意味の巧遅」が必要だと訴える(以下、山口氏の寄稿)。

◆逮捕万能論にも限界がある
先月、18歳の長女の胸ぐらをつかんで押し倒した疑いで現行犯逮捕された阿部慎之助巨人軍前監督は「寛大処分」の意見付きで書類送検された。チャットGPTの助言を受けて児童相談所に相談した──。そう告白した長女の手紙にはインパクトがあり、現代の宿痾の象徴として注目を集めた。だがもしこれが例えばアメリカのアラスカ州とかコロラド州なら、阿部氏は間違いなく逮捕である。長らく“プライベートな問題”と扱われてきたDV(家庭内暴力)に光が当たったのは、全米で女性の権利を求める動きが活発化した’70年代のこと。そしてDVに対する警察の対応が再犯率に与える影響を検証した1984年のミネアポリス実験は、DV加害者を逮捕する/被害者と引き離す/助言を与えるという3択の中で、逮捕がその後6か月間の再犯率を有意に減少させたと結論づけた。「よっしゃ、全員を取っ捕まえろ!!」ということで、’90年代にかけてアメリカの多くの州で、DVでの逮捕が「義務」になる。つまり、いかに家族が嘆こうと、現場に駆けつけた警察官に裁量の余地は一切なく逮捕されるのだ。
話はこれだけでは終わらない。仮に自己防衛のため、長女も引っかくなりすればアメリカでは「双方逮捕」、つまり阿部氏のみならず、被害者的立場の長女もまとめてしょっ引かれる可能性がある。実際、義務的逮捕が導入された’80年代後半から’90年代にかけて、自らの身を守っただけの女性の逮捕が相次いだ。
◆SNS時代は“巧遅”を許さない
さらに言えば、逮捕がDV再発を減少させるという実験結果すら疑問視されつつある。最初の6か月間は暴力が減っても、その後さらにエスカレートするとの示唆もあるのだ。DVは単なる痴話喧嘩ではなく、構造的な力関係の問題である。やはり行政は家庭に立ち入らなくてはならない。だが過少介入と過剰介入との間で常に振り子は揺れ続けている。私は思う。被害者の安全を確保するまでは、ある程度の拙速な過剰介入は許容される。だけどその後は、事実を見極めるという意味の巧遅が、ときには必要ではないか。だがSNS社会はそれを許さない。時間がかかるほどデマや臆測が流れ、ネットは荒れ狂うだろう。だから、阿部氏は速攻で辞任して幕を引いた。すると、逆にその“潔さ”を評価して、事の次第もわからないまま13万人が監督復帰を求めて署名するという感情のジェットコースター状態だ。ここは深呼吸してちょっと落ち着こう……阿部氏が、巨人軍が、私たちすべてが「善か悪か」と不当に物事を単純化するSNSから距離を置き、複雑な事実を煮詰める度量を持たなくてはならない。

【山口真由】
1983年、北海道生まれ。’06年、大学卒業後に財務省入省。法律事務所勤務を経て、ハーバード大学ロースクールに留学。帰国後、東京大学大学院博士課程を修了し、’21年、信州大学特任教授に就任

