平地不足を補うために、高度経済成長期に傾斜地を切り開いて造られた日本の住宅地。地理的な課題を土木技術で解消したひずみとして、多くの戸建てで擁壁が造成されることになった。その擁壁がここへきて寿命を迎え、崩れ去る事例が相次いでいる。
記憶に新しいところでは2025年9月30日に東京都杉並区で、高さ4〜5メートルの擁壁が突如崩落。その上に建っていた木造2階建て住宅が完全に倒壊する事故が発生した。そのインパクトはすさまじく、報道でも大きく取り上げられた。
杉並区はすぐに調査に動き、区が把握する擁壁のうち安全性に問題がある24件の緊急点検を実施。その結果、以前の調査から、傾きやはらみがより進行しているものが2件あったことを報告した。
大阪府吹田市などの住宅地でもここ数年、擁壁の崩落トラブルが続発。崩落によって住宅の基礎が宙に浮いた状態になったり、前面道路や隣接地へ土砂がななだれ込んだりする被害が各地で報告されている。
なぜ擁壁が崩れ始めたのか
背景には、日本社会のインフラ老朽化と自然災害の激甚化などがある。
持ち家ブームに伴い、日本に大量の宅地造成が行われたのは1960年代から1980年代前半にかけて。その際、何百万か所もの擁壁が造られた。国土の7割が山地・丘陵地の日本。宅地造成には山を切り崩す必要があり、高低差のある土地や斜面において、土砂の崩壊を防ぐため、擁壁が必要だったのだ。
専門家の推計によると、その擁壁が老朽化し、崩壊リスクがあるのは全国で100万〜200万か所以上とも指摘されている。耐用年数は30〜50年といわれ、すでに多くが寿命を迎えつつある。脆くなっているところへ近年頻発するゲリラ豪雨や台風による大量の雨水、また大規模な地震が、弱り切った擁壁に致命的な負荷を与えているという。
杉並区で崩落した擁壁は約57年前(1968年築)に造られたもので、現行の法律が定める技術基準を満たしていない「不適格擁壁」。そもそもこうしたハイリスクな住宅も混在し、ここへきて、人口増大期の宅地大量造成のひずみが擁壁崩落という大きなインパクトとともに、社会への“警鐘”として表面化しているのが現在地だ。
崩壊リスクのチェックポイント
もっとも、ある日突然、崩落ということは現実的にはあり得ない。杉並区の崩落事案のような大惨事を防ぐためには、日常的な目視点検などによる“危険なサイン”の早期発見により、回避はできる。チェックポイントは以下だ。
- ひび割れと変形: 擁壁の表面に斜めや階段状のひび割れ(クラック)が入っている場合や、壁面が手前に膨らんでいる(はらみ現象)、目地がズレている場合は、構造が限界を迎えている証拠。
- 水抜き穴の異常: 法律上、擁壁には3平方メートルあたり1個以上、内径7.5センチメートル以上の水抜き穴が義務付けられている。この穴がない、あるいは草や土砂で詰まっていると、壁の裏側に水が溜まって異常な水圧(水圧の負荷)がかかり、崩壊の原因になる。
- 湿気・苔・白華現象: 常に壁面が湿っている、苔が生えている、あるいはコンクリートの成分が溶け出して白く変色(白華現象)している場合は、内部の排水環境が悪化しているサイン。
- 違法な構造(増し積み・二段擁壁): 当初の擁壁の上にさらにブロックを付け足した「増し積み」や、古い擁壁の上に新たな擁壁を重ねた「二段擁壁」は、設計外の負荷がかかるため極めて危険。
これらは、素人でも定期的にチェックしていれば、ある程度の異変には気付けるだろう。
関連の法律および法的責任
擁壁の管理は、単なる個人の財産問題にとどまらず、重い法的責任を伴う。この点について、土地・建物に関する法的トラブルに詳しい荒木謙人弁護士は「危険な擁壁を放置することは、建築基準法などが定める維持管理の責務の観点から問題がある」と指摘する。
建築基準法8条は、建築物の所有者・管理者・占有者に対し、その敷地・構造・設備を「常時適法な状態に維持するように努めなければならない」と定めており、建築物の敷地を支える擁壁もこの維持保全の対象に含まれてくる。
さらに2023年5月に施行された盛土規制法(宅地造成及び特定盛土等規制法)では、宅地造成等工事規制区域など知事等が指定した区域内の土地について、崖崩れや土砂の流出が生じないよう安全な状態に維持する責務が所有者等に課されている。
「『行政が放置していたのが悪い』という声を聞くこともあるが、擁壁はあくまで個人の財産。安全を確保すべき第一次的な責任は、原則として所有者にある」と荒木弁護士は強調する。
危険に気づいて造り直そうとしても、すぐに工事ができるわけではない。高さが2メートルを超える擁壁を設置・改築する場合、原則として着工前に自治体へ建築確認申請を行い、工事完了後には完了検査を受けて検査済証の交付を受ける必要がある(都市計画法の開発許可や盛土規制法等の許可を受けた擁壁などは、確認の対象から外れる場合もある)。
古い擁壁にはこうした手続きを経ていないものや、現行の安全基準を満たさないものも多く、適法に造り直すには専門的な設計と多額の費用がかかる。この「費用と手続きの壁」が、改修をためらわせる一因にもなっている。
崩落して他人に被害を与えた場合の損害賠償責任
そして最も重いのが、崩落して他人に被害を与えた場合の損害賠償責任だ。擁壁が崩れて隣家を壊したり通行人を死傷させたりすれば、民法717条(土地工作物責任)が問題となる。
同条は、まず擁壁を現実に支配する「占有者」が一次的に責任を負い、占有者が損害の発生防止に必要な注意をしていたときは、最終的に「所有者」が責任を負うと定める。多くの住宅では所有者が占有者を兼ねるため、結局は所有者が責任を引き受けることになる。
特筆すべきは、この所有者の責任が「無過失責任」とされる点だ。「『自分は素人だから崩れるとは思わなかった』『目視点検はしていた』といった、所有者自身に落ち度がなかったという弁明は通用しない」と荒木弁護士は言う。擁壁に安全性を欠く状態(瑕疵)があり、それが原因で被害が生じたと認められれば、過失の有無にかかわらず賠償責任を負うことになる。
ただし、これは「崩れさえすれば無条件に全額を賠償する」という絶対的な責任ではない。賠償を求める側は、①設置・保存に瑕疵(かし)があったこと、②その瑕疵によって損害が生じたこと(因果関係)を立証する必要がある。したがって、通常想定し得ない規模の地震や豪雨といった不可抗力が原因と認められれば、設置・保存の瑕疵と損害との因果関係が否定され、損害賠償責任が発生しない余地もある。
とはいえ、日頃から異変を放置していた擁壁では瑕疵が認められやすく、所有者の責任が問われる可能性は高い。
賠償額は、隣家の建て替えや家財の補償、さらに人命に関わる事態となれば、数千万円から場合によっては億単位に及ぶことも想定される。自宅の擁壁といえど、ずさんな管理は自己破産にも直結しかねない重い代償を負うリスクがあるのだ。
杉並の事例では早くからリスクを把握していたが…
杉並区の事例では、区は昭和59(1984)年という早い段階から、当該擁壁に亀裂があることを把握。その後、毎年の現地調査のほか、所有者へ文書や対面での指導を行っていた。
当該住居側も、指導を受け、亀裂のモルタル補修は複数回行ったが、抜本的な安全対策は行われなかった。令和6(2024)年10月の現地調査では亀裂が広がっていたため、安全上の問題があり、早期に対策が必要であるとの認識から、区は同月、改めて早期の改善に向けて指導を行った。
この時点で、近隣住民や通行人への注意喚起のため、区はカラーコーンも設置していた。そして、令和7(2025)年9月24日、所有者が区建築課を訪れ、「擁壁の補強工事を行う」と報告があったという。擁壁崩落のわずか6日前だった。
タッチの差の悲劇となったが、結果的に長きにわたり、“要注意物件”として、チェック下にありながら、所有者側が本質的な補修を先延ばししたことで、最悪の事態につながってしまった…。
予防策は迅速な行動
これを教訓にするなら、危険性が疑われる場合、あるいは将来の崩落を防ぐためには、迅速な行動が必要ということになる。
定期点検の習慣化だけでも、わずかな異変に気付きやすくなり、大きな効果が期待できる。梅雨の前や台風シーズンの後など、崩落リスクが高まるタイミングに、年に最低2回は自主点検を行うことを国交省は対策として推奨している。
行政の支援制度活用という選択肢があることも念頭に入れておくといいだろう。杉並区の事例でも、危険だとわかっていながら、補修コストがネックとなったことは想像に難くない。抜本的な補修には数百万円かかるといわれ、二の足を踏むのも無理はない。
多くの自治体では、老朽化した擁壁に対し、「専門家による無料調査・診断」を行う制度を設けている。また、一部の地方公共団体では補修や再構築工事に対する独自の補助金制度を設けている場合もあり、大幅な負担減も期待できる。
事後対応でなく、「崩れる前に防ぐ」への意識変革が急務
日本全国でじわじわと着実に進行する「擁壁の老朽化」。もはや社会問題化しつつある状況に対し、国や自治体も実態把握と予防保全の強化へ舵を切り始めている。
「崩れてから直す(事後対応)」ではリスクが大き過ぎる。そうではなく、「崩れる前に防ぐ(予防保全)」という意識を社会全体で共有することが急務だ。
行政による公的な支援(公助)の拡充と同時に、住民同士が危険性を認識し合うこと(共助)、そして何よりも土地の所有者自身がリスクを正しく理解し適切に管理していくこと(自助)が、老いる日本にあって安全な住環境を守るための鍵となる。

