ついに、ノーベル賞が決まりましたね!日本からも京都大学の北川進特別教授や大阪大学の坂口志文徳仁教授らが選ばれ、世界中からの祝福が贈られました。
こういった方々を、ついつい我々は「○○博士(ハカセ)」と読んでしまいます。学術的に物知りな人を指すこの言葉。小学校でのあだ名が「物知りハカセ」だった方も、実はいらっしゃるのでは。
しかし、「博士(ハクシ)」と読むと意味は変わります。
学術的な博士号を指す正式名称であり、取得するには大学院での博士論文審査を通過するレベルの研究論文をしたためなくてはいけません。

◆博士になるには最短で9年必要
これが「言うは易く行うは難し」の典型であり、「打席に立てば合格」や「バットを振れば合格」と言われる学士号、修士号に対して、博士号は「ヒットを打てれば合格」と喩えられるほど。博士号を取るためには、大学院博士課程に進学するルートが一般的ですが、仮に博士までストレートで走り抜けたとしても学部(4年)+修士課程(2年)+博士課程(3年)で9年はかかる計算に。
もちろん、研究が進まなければもっと年数はかさむ。18歳で入学した青年も、出るころにはよくてアラサーです。
残念ながら、日本の研究者志望数は、多いとは言えません。
少なくとも、人口100万人あたりの修士号・博士号取得者数はイギリスやドイツ、アメリカ、韓国の半分程度かそれ以下でしかない。
高等教育までは受けても、大学院進学者はほとんどいない国なんです。やはり、国も焦ってきているのではないでしょうか。
先日、文部科学省から「学部課程と修士課程を一貫教育として5年で修了とする」構想が発表されました。
時間がかからなくなった分、なんだか研究者になりやすいルートが開拓された感じがします。
ですが、実際に研究者を目指す学生たちは渋い顔でこの改革を見ていました。「学部修士一貫教育で研究者は増えるのか?」を考えます。
◆インフレした「高等教育」
まず、文系と理系では「科学」へのアプローチが大きく異なります。一般に難しい、専門的と見られがちな理系ですが、その偏見はある種正しい。
大学院修士・博士課程進学を検討中のOさん(理系・学部4年生・修士課程進学予定)やSさん(理系・修士課程在学)は口を揃えて「時間的な余裕がない」と断言します。
「研究も手当たり次第にやっていいわけではなく、“大きな流れ”のようなものが、先人たちの努力によって形成されています。
ここから次につながるような可能性を辿っていく試みが求められているわけですから、“研究”のためには、従来の研究を一通りさらっておかなくてはいけません。
そして、学部4年間では、ほとんどその“大きな流れ”の把握だけで終わらざるを得ない。積み重ねが多すぎるからです」(Sさん談)
「現代までの積み重ねの把握が不可欠でありながら、量が多すぎるのが問題です。
学部4年生の秋、すなわち卒業の半年前になってようやく授業に空きが出始めるかどうか。
4年生の春までは必修でガチガチな学部も理系では珍しくない。週20コマ~25コマが普通です。
もちろんそれぞれの課題や復習の手間もあるわけで、これ以上は物理的に時間が足りなくなります」(Oさん談)
さらに、「流れ」は今もなお増大し続けています。新たな研究結果が出れば、その分教科書は厚みを増していく。
かつて自分と同じ理系大学院生だったという父が使っていたノートを見返したOさんは「こんな簡単な、学部3年生が学ぶような内容を、30~40年前は大学院でやっていたのか」と愕然としたそう。
ただ、理系の大多数はほぼ大学院進学を考えます。
現在修士課程在学中のHさんは、その理由を「やることが多すぎて、学部では研究まで行きつけない。
修士課程・博士課程になって、ようやく自分の”研究”にチャレンジできる」と語ります。能力さえあれば、1年短縮の恩恵は間違いなく大きいのでしょう。

