
ワタシ(中村修治)は、おふくろの葬儀を終えた7月末から、その後始末に追われている。葬儀は人生の終わりを告げる“区切り”であると同時に、相続などなど…お金にまつわる“新しい物語”が始まる。その報告をさせてもらう。
『人は死んだ時がいちばんお金持ち』!?
皮肉なものである。“贅沢はできない!!”とサービス付き高齢者住宅の家賃を死ぬまで気にしていたおふくろは、死んでから“いちばんお金持ち”になっている。『人は死んだ時に、最もお金持ちになる。』そんな話は聞いていた。でも確かにそうなのである。
貯めていた預金が出てくる。
保有していた資産が明るみになる。
終身保険も現金化される。
認知症も始まっていたので、その中身についての記憶は、ほぼない。
戦後を生きた慎ましい暮らしの記憶のまま贅沢もせずに逝った。
年金をやりくりしていた背景には、決して多くはないのだが、こんなにもあったのか!?と今更ながらに驚く。使わずに残った預金や保険金は、死後になって初めて“数字”として立ち現れるのである。
相続の現実は、家族の関係性を試す鏡!?
死んだ瞬間にいちばんお金持ちになるのに、当人であるおふくろは、もう使うことができない。豊かになったのは、故人ではなく「遺された家族」だ。それは同時に、家族に課せられた“責任”ともなる。どう分けるか。どう守るか。どう巡らせるか。死後に現れた財産は、家族の関係性を試す鏡になる。
相続は単なる分配作業ではない。法律は公平に“法定相続分”を定めているが、現実には家族の数だけ思惑がある。キレイに割り算が効かない。介護や同居の記憶が絡むと、感情は複雑に絡み合う。相続とは「お金の問題」ではなく「関係の問題」でもある。『人は死んだ時に、最もお金持ちになる。』ことでリアルに見えてくるのは、家族の思惑がグルングルンと揺れ動く心のありようである。
