港区・西麻布で密かにウワサになっているBARがある。
その名も“TOUGH COOKIES(タフクッキーズ)”。
女性客しか入れず、看板もない、アクセス方法も明かされていないナゾ多き店だが、その店にたどり着くことができた女性は、“人生を変えることができる”のだという。
タフクッキーとは、“噛めない程かたいクッキー”から、タフな女性という意味がある。
▶前回:「これって脈あり?」買い出しのはずが、気付けばシャンパン。彼との近すぎる距離感とは
「運転ってやっぱ性格が出るよねぇ」
と、運転手をうっとりと見つめるルビーにともみはこっそりと苦笑いする。今日の助手席は私のものと言われずとも、さっさと後部座席に乗り込んでいたのだが、ルビーもともみも免許を持っていないため、仙台でレンタカーを借りてくれたのも、運転席に座るのもミチだ。
― でも確かに快適。
車線変更や加速に迷いはなく、車が不快に揺れない。まだ恋人になる前の大輝に箱根旅行に連れていってもらった時、大輝の運転も心地よかったと思い出しながら、ルビーを仙台に連れ出す、いわばエサ役を引き受けてくれたミチにバックミラー越しに感謝する。
仙台駅近辺で買い込んだ、牛タンのしぐれ煮やはらこ飯(鮭の炊き込みご飯にいくらをのせたもの)などのご当地おにぎり。それらを幸せそうに頬張りながら、その美味しさを、いわゆる「あーん」というスタイルでミチに共有したいルビーと、顔をしかめつつも5回に一度くらいは受け入れているミチ。まるで2人のデートをのぞき見しているようで微笑ましくて、あと1時間もすれば到着してしまう、母娘の再会への緊張感がしばし和む。
余命宣告されたルビーの母、明美がTOUGH COOKIESへ来店したのが一か月ほど前。以来ともみは1人で病と闘う明美に、ルビーの日常を、時に写真を添えて伝えてきた。
「明美さんに何かあったとき、私にも連絡してもらえるように、お医者さまに私の連絡先を伝えておいて欲しい」
宮城に戻った明美との何回目かのやりとりで、ともみは思い切ってそう伝えていた。そのことについて明美からの返信はなかったけれど、数日前に高橋という担当医からともみの携帯に連絡が入った。
明美の肺に新たな転移が見つかり、それが呼吸機能に深刻な障害を引き起こしたこと。既に緩和ケアに入っている明美には、新たな治療への意志がないため、いつ状態が急変するか分からないという知らせであった。
「それは――最期の時が近いということでしょうか?」
余命は1年ほどだとつい先日聞いたばかりなのに、そんなのおかしいじゃないですか、とまるでクレームのような口調になってしまったともみに医師は、驚きのことを言った。
「当初は余命が1年ほどだと思われていました。でも思わぬ転移がみつかり…特にここ数か月の状態はすこぶる悪く、1か月程前に東京に行きたいと言われた時も許可を出しませんでした。先生が許してくれなかったなら、病院を脱走してでも行くと半ば脅されてしまって」
そんな明美の意志の固さに医師がしぶしぶ折れ、何かあった時には頼るようにと、東京の病院にいる知り合いの医師の連絡先を渡して送り出したのだという。
「つまり、東京に滞在していた間、いつ倒れてもおかしくない状態だったということですか?」
「その通りです」
ともみには信じられなかった。確かに明美は折れそうな程に細かったけれど、少しだけれど酒も飲んだし、まさか、そんな。
「痛みもかなりあったと思います」と静かに続けた医師の言葉にはいたわりがあったけれど、続く内容は事務的なものに変わった。ともみは明美の親族なのか、明美の最期に寄り添い、手続きをできる人はいるのか、など…それらに答えたあとともみは、なりふり構うのをやめ、すぐにルビーを呼び出した。そして。
「ルビー、私と一緒に明美さんのところに行くよ」
「え?」
「明美さん、もう…いついなくなるかわからないんだって。だから絶対、その前にもう一度会わなきゃダメ」
大きなため息と共に「なんであの人と連絡とってんの?」と呆れ、「そんな話なら帰る」と拒んだルビーにともみは、行かないのならTOUGH COOKIESを辞めてもらうし、絶縁するよ、と思いつく全ての脅しを並べたけれど。
「辞めさせるのなんて無理。私がいなくなって困るのはとも姉でしょ」とあっさりと見抜かれ、医師とのやり取りの全てを正直に伝えてもダメで、ならば最後の手段を、とともみは。
「じゃあ、ミチさんと私だけで行くけどいいのね?」
「…は?」
「病院の場所を調べたら車がないと困りそうだったから、仙台駅でレンタカーを借りてミチさんに運転を頼もうかと」
「大輝さんにしてよ」
「大輝は今、脚本の追い込みで動けないし。ミチさんに頼んでみる」
「ということは、まだ頼んでないってこと?」
「そう、まだ、ね。でもこの後すぐ頼むよ」
今思いついたのだから、頼んでいるわけがない。けれどともみもルビーもミチがこの手のお願いを断る人ではないと知っている。
「ルビーが行かないって言うんだったら仕方ない。でも私は行くから。せっかくミチさんと“2人”で行くんだし、お見舞いの帰りに“2人で”美味しいものとか食べてきちゃおうかな。あ、一泊してきてもいいかも。“2人”で、ね」
2人で、と強調するたびに頬が、口元がピクリと強張り続けるルビーに、あと一押しだとともみは携帯をとりだした。
「ミチさんに今LINEするね」
「…」
「宮城にいるルビーのお母さんのお見舞いに行くのですが、車が運転できる人が必要なので、ミチさん一緒に行ってもらうことは可能ですか?」
わざと声に出しながら文章を打ち込んでいき「ルビーは行かないらしいので、私と2人です。お礼にご飯をご馳走させて頂けたら」と送信しようとしたところで、「ああ、もう!!」と、ルビーに携帯を取り上げられた。
「ミチ兄には私から頼む。だからとも姉からは何も言わないで」
ともみはしたり顔でニヤリと笑い、念押しした。
「それはルビーも、明美さんのところに行くってことよね?」
「ミチ兄とのドライブデートに行きたいだけ。アタシより先に、とも姉がミチ兄の助手席に座るなんてイヤだもん」
ガルル…と噛みつく勢いで睨んだルビーにともみは「ミチさんと2人で行く?」と聞いてみたのだけれど。
◆
「着いたぞ」と、助手席のルビーを起こして車から降りたミチを追いかけるように、ともみも後部座席を出た。蔵王の森に建つ病院の駐車場。緑に囲まれた空気は涼やかだ。
— 3人で行きたいって言われると思わなかったな。
寝ぼけながら目をこすり、放っておけばまた眠ってしまいそうなルビーを助手席から引きずりだしながら、ともみは「私とミチさんだけだと恥ずかしくなっちゃうかもしれないから」と、同行を頼まれたことを思いだした。
ミチの店、BAR・Sneetの定休日に合わせた月曜日。大規模な医学学会といくつかのコンペティションが重なったせいで、駅前のレンタカーショップには選べる車が少なく、小さな国産車を借りることになった。
一時間ほどの運転席。190cm近い体には窮屈だったのか屈伸と伸びを繰り返しているミチは8月だというのに、長袖のネイビーの襟付きシャツ。二の腕から肘にかけて入ったタトゥーが見えない、透けないようにという気遣いだろう。それでも。
「オレは病院の中に入らない方がいいだろうから、車で待ってるよ」
目の下の傷に大きな体、1つにまとめられた長髪。東京では気にする人が少ないミチの容貌だが、田舎町の病院では確かに目立つ。堅気ではない人との付き合いがあるのは、など、明美に変な噂が立つことは避けた方がいいと、車にもたれたミチの腕をようやく覚醒したらしいルビーの腕ががっちりと掴んだ。
「一緒に来てくれないと困る。というか、ミチさんが行かないならアタシもいかない」
「…何言ってんだよ」
「3人じゃなきゃ会わない。さ、行こ!」
ぐいぐいとミチを引っ張り、駐車場をずんずんと病棟へと進んでいく2人の背をともみも追いかける。振り向いたミチが車に鍵をかけた、ピッという電子音が妙に響いて、ともみの緊張感が増した。
受付に行くと、まずは高橋医師の診察室へと案内された。「娘さんですか?」と聞かれ「血だけは繋がってますね」と答えたルビーに、高橋医師はそれ以上を返すことなく、病状を再度説明したあと、3人を病室へと案内した。
明美は眠っていた。酸素マスクを付けられ、いくつかの機械と点滴を繋がれた腕は以前より細く白く痛々しくて、ともみは目をそむけたくなる弱さをグッと堪えた。少し離れて立つルビーの表情からは感情が読めない。ただがっちりと掴んだミチの腕を放す様子はなかった。
「今は薬で眠られていますが、あと30分もすれば目を覚まされるのではないかと」
そう告げた看護師に、高橋医師はいくつかの数値の確認したあと、帰りにまた診察室に寄ってくださいねと出て行った。カフェテリアもあると教えられたけれど部屋から出る気持ちにはなれず、ミチに促されて、ともみとルビーはそれぞれ窓際に置かれていたソファーに並んで座った。
「飲み物を買ってくる」と出て行ったミチがコーヒー3つを手に戻ってきても、誰も言葉を発さなかった。映画やドラマの中で時計の秒針の音が、カチ、カチ、とやたらと響く描写があるけれど、深い静けさの中では本当に大きく聞こえるものなのだと、ともみは初めて知った。
そしてきっちり30分が過ぎた頃。ベッドから小さな咳き込みが聞こえた。思わず立ち上がったともみの音に反応したかのように、ゆっくりと身じろぐ気配が続く。
おそらく明美がリモコンを押したのだろう。ベッドの上半身がブイーンという機械音と共に起き上がる。
「ともみ、さん?」
酸素マスクでくぐもっていることを差し引いても、弱々しい声。それでも明美は笑った。そしてゆっくりと視線が動き、ルビーを捉えたその視線が固まる。
「…ルビー、ちゃん。来てくれ、たん、だ」
途切れ途切れに発せられた声が、震えている。肺の機能が著しく低下していると医師は言っていた。これ以上大きな声を出させてはいけないのでは、とともみは、気づけばルビーを引っ張り起こし、ルビーの体から力が抜けていたおかげで、明美の枕元まで簡単に連れて行くことに成功した。
「ごめん、ね。こんな、の、見せ、ちゃって」
笑おうとして咳き込んだ明美にともみは医師を呼ぶべきかと聞いたけれど、明美は小さく首を横に振った。これくらいはいつものことだからと言われて胸が詰まったけれど、今は自分が弱っている場合じゃないと、微笑みを作ってまずは明美に謝った。
「ルビーを黙って連れてきちゃってごめんなさい。それで、あの…あちらはミチさんです。ミチさんのことはご存知でしたよね」
8年ほど前、年齢を詐称して六本木のキャバクラで働いていたルビーを訪ねて行ったとき、路上でホストたちに絡まれた明美を助けてくれたのがミチと光江だったのだと、ともみは明美から聞いていた。
明美の正面、窓際に立つミチが、お久しぶりです、と頭を下げると、「また助けていただいたんですね」と明美が礼を言った。そのやりとりにも反応できずに、ただ茫然と明美を見つめている…というよりも視線を動かすことができずにいるルビーの手をともみがぎゅっと握る。
ルビーの指先は震えていた。強引に連れてきて対面させているくせに、いざこの瞬間を迎えると、何から切り出せばよいのかわからず、ともみは自分が情けなくなった。近くにあった小さな丸椅子をミチが運んできて脱力したままのルビーを座らせると、明美が、もう一度、ごめんね、と吐き出し、息を整えてから続けた。
「ゆるさ、なくて、いいん、だか、らね」
ルビーの震えが、ともみの手の中で止まった。
「わた、しをゆるさなく、ていい。今の、わたし、に同情、しなくて、いい」
少し動かすのも辛そうな体を、ルビーの方になんとか向けると明美は大きく微笑んだ。おそらく力の限りの笑みだった。
「あり、がと、ね。ほんとに、あり、がと…わた、し、さいご、に…ルビーちゃんに…1つ、だけ…」
その目尻から涙が落ち、再びその口が開かれようとした瞬間、明美は大きく咳き込んで丸まり、もがき、アラーム音がけたたましく響いた。「明美さん!?」と明美の体を支えようとしたともみを「離れろ」とミチの強い力が、ルビーごと引き剥がす。
バタバタと入ってきた医師と看護師の処置を、ともみはルビーを支えながらただ見つめることしかできなかった。
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