「作品が多くの人に見られ、アニメ業界全体が前向きな雰囲気になっている。だからこそ、その陰で取りこぼされる人が出ないように、働く一人ひとりの安全と幸福を考えていきたい」
『この世界の片隅に』などで知られるアニメーション映画監督の片渕須直氏は、急速に変化する制作現場の未来を見据え、このように訴えた。
世界で高い評価を受ける日本のアニメーション。近年では制作を支えるクリエイターらの労働環境の改善も進みつつあるが、個人事業主やフリーランスとして働く個人のセーフティネットについては、なお課題が残されている。
こうした状況を改善しようと、一般社団法人日本芸能従事者協会は7月22日、都内で会見を開き、アニメーション制作従事者を対象とした新たな労災保険特別加入団体「アニメ安心ネット労災保険」の設立を発表した。
同団体は6月29日に設立され、現在、東京労働局に承認申請中。理事長は同協会代表理事の森崎めぐみ氏が務め、副理事長には片渕氏のほか、映画監督の深田晃司氏が就任した。
会見で森崎氏は、「世界に誇るコンテンツを持続的に生み出していくためには、生身の人間である担い手が安全に安心して働き続けられる就業環境を整えることこそが必要だ」と訴えた。(ライター・杉本穂高)
「才能とは関係ないところで、仕事を続けられるかが決まってしまう」
労災保険は、本来、企業などに雇用される「労働者」を対象とする制度である。しかし、働き方の多様化を受け、労働者ではない個人事業主やフリーランスでも、一定の業種について、特別に任意加入を認めたのが「特別加入制度」だ。
芸能従事者やアニメーション制作作業従事者は、2021年の厚生労働省の省令改正により、この制度の対象に加えられた。しかし、厚生労働省の発表によれば、2024年度末時点で、フリーランス等で働くアニメーション制作作業従事者で労災保険に特別加入している人は全国でわずか34人にとどまる。
「アニメ安心ネット労災保険」では、この「特別加入制度」に加入するための労基署への申請や労災に遭ったときの申請サポートを請け負うほか、産業医への医療相談、ハラスメントの相談窓口等も設置する。
今回、副理事長に就任した深田晃司監督は、アニメ・実写を問わず、映像制作に携わるフリーランスたちが置かれた不安定な立場を次のように説明した。
「急なけがや病気で仕事ができなくなったとき、経済的な基盤がある人はサバイブできる。しかし、そうではない人は、本人の能力や才能とは関係ないところで、その仕事を続けられるかどうかが決まってしまう」
そのうえで、現場の人々が安心して働くための「インフラ」として労災保険にアクセスできる環境を整える意義を強調した。
同団体の案内リーフレットによれば、加入により、仕事中や通勤中のけが、病気、死亡などについて補償を受けられる。保険料は年額3500円〜2万5000円。会費は月額600円、入会金は3000円。補償内容には、指定病院で医療費が無料となる「療養補償」、休業4日目から給付基礎日額の8割が支給される「休業補償」、障害補償、遺族補償年金・一時金、葬祭料など幅広く含まれている。
片渕須直監督「50代で亡くなる先輩を多く見てきた」
アニメーション制作の現場に約45年携わってきた片渕須直監督は、長年業界を支えてきたフリーランスの先輩たちの姿を振り返った。
「必ずしも仕事が直接起因する労働災害だったかはわからないが、かなり多くのクリエイターが50代という若さで亡くなっているのを見てきた。肉体的にも精神的にも、長年にわたる疲労が蓄積するような環境があるのではないかと思ってきた」
近年では、一部の大手アニメ制作会社を中心に社員採用や福利厚生の整備も進みつつある。しかし、制作本数が多い現状では、業務委託で働く個人事業主の存在が依然として大きいのが実情だ。
さらに片渕監督は、作業のデジタル化による弊害にも言及した。かつては「制作進行」と呼ばれるスタッフが、クリエイターらの自宅を訪ね、手描きの原画などを直接受け取る中で対面でのコミュニケーションが生まれていたという。しかし、データのやり取りが中心となった現在では、「個人で働いているクリエイターが、どのように健康状態や精神状態にあるのかを周囲が把握しにくい状態になっている」と述べた。
在宅で一人で作業することの多さや、複数案件を同時に抱える働き方から、精神的な不調に陥るリスクもあると指摘する。
「作品が多くの人に見られ、アニメ業界全体が前向きな雰囲気になっている。だからこそ、その陰で取りこぼされる人が出ないように、働く一人ひとりの安全と幸福を考えていきたい」(片渕監督)
フリーランスにどう周知するかが課題
片渕監督は、フリーランスのアニメ制作従事者の労災保険加入の少なさについて「こうした制度の周知が一番の課題」と語る。
制度を広める手立てとして、片渕監督は、アニメーターや演出家を中心とする「日本アニメーター・演出家協会(JAniCA/ジャニカ)」や、アニメ業界の人材育成・労働環境改善に取り組む「一般社団法人日本アニメフィルム文化連盟(NAFCA)」といった既存の業界団体との連携も「可能ならば」やっていきたいと語る。
しかし、アニメ制作にはアニメーターや演出家だけでなく、「撮影」「編集」「音響」、色彩設計などを行う「仕上げ」など、極めて多様な職種が関わっている。現在のアニメ業界には、こうした多様な全職種を横断的に包括するような業界団体が存在しないという。
片渕監督は、労災保険の周知活動をきっかけにして、業界の全職種を網羅するような「新しい横断的な枠組みづくりにも取り組んでいく必要がある」との認識を示した。
漫画家らは別制度で支援
今回設立された「アニメ安心ネット労災保険」は、主にアニメーション制作に直接携わる人を対象としている。一方で、アニメの原作を手掛ける漫画家など、アニメ労災の対象とならない職種については、同協会が別に運営する「フリーランス安心ネット労災保険」への加入を案内していく。
今後同協会では、制度の周知に留まらず、現場の環境改善に向けた多角的な取り組みを予定している。具体的には、7月20日に公開した「アニメーション制作従事者の健康管理ガイドライン」の普及啓発を進めるほか、7月31日には個人事業者にも関わる改正労働安全衛生法に関する勉強会を開催する。また、8月をめどに、内閣官房と公正取引委員会策定示した「アニメ制作現場の取引適正化指針」について、公正取引委員会の担当者を招いた説明勉強会も実施する計画だ。
森崎氏は、「この数年で、国はフリーランスが働きやすい環境づくりを進めているが、現場にはまだ浸透していない」と述べ、労災保険を入り口に安全衛生や取引適正化の制度理解を、業界全体に広げていきたいと意欲を示した。
アニメ安心ネット労災保険詳細:https://artsworkers.jp/geinourousai/anime/
■杉本穂高
日本映画学校(現・日本映画大学)出身。神奈川県のミニシアター「アミューあつぎ映画.comシネマ(現・あつぎのえいがかんkiki)」の元支配人、現在は映画ライター。

