港区・西麻布で密かにウワサになっているBARがある。
その名も“TOUGH COOKIES(タフクッキーズ)”。
女性客しか入れず、看板もない、アクセス方法も明かされていないナゾ多き店だが、その店にたどり着くことができた女性は、“人生を変えることができる”のだという。
タフクッキーとは、“噛めない程かたいクッキー”から、タフな女性という意味がある。
▶前回:旅先のホテルのスイートルームで明かされた秘密。彼女が捨てられた本当の理由とは
「明美さんは、男を選んでルビーを捨てたわけでも、ましてや望んで離れたわけではない。本当は絶対に――絶対に離れたくなかった。取り戻そうと必死だった。それもまた事実だってことだよ」
取り戻す…とか言われてもねぇ…と唇を歪ませたルビーがグラスを置くと、その薄張りの音が頼りなく響いた。2人で泊るには広すぎるスイートルームを囲む蔵王の森は、わずかな月明りが煙るだけの漆黒で、リビングルームのライトがポツリ、ポツリと頼りなげに、壁一面のガラス窓に映っている。
「信じられないし。その話がマジだったとしても、で?って感じ。なんの感情もわかない」
自分のグラスに日本酒――地域の名を冠した銘酒“蔵王”を注ぎながら、ルビーは、今度は屈託なく笑った。
「そんな顔しないで」
「…私?どんな顔してる?」
「アタシのことが、心配で仕方ないって顔。でも大丈夫。ともみさんが思ってるより、時間ってすごいんだよ。あの人のことは今でもずっと恨んでるけど、ここまできたらさ。なんか、もういろいろ――覚悟決まったし」
「…いろいろって?」
「逃げたりしないよ。ちゃんと会う」
だからもう少し付き合ってよ、とルビーは溌剌とキッチンスペースに向かい、今度はホテルで買った白ワイン―山形県のワイナリーのソーヴィニヨンブランとグラスを手に戻ってきた。
そこからはただただ他愛もない話だけで。ルビーがミチを呼びつけて、その浴衣姿に大興奮し、腹筋を見せてくれとせがんだり、それにミチがうんざりしたり。
そのうちにともみもルビーも、いつのまにかソファーで眠ってしまったようで。翌朝7時過ぎ、高橋医師からの電話で目覚め、病院へ向かうことになったのだ。
◆
嵐のようだった昨日がウソのように穏やかな朝の光に満ちた廊下を3人で歩く。病室の扉の前でルビーは立ち止まり、大きく息を吸い込んだ。ここに来る前に高橋医師から、できるだけ興奮させないようにと釘を刺された。
「皆さんが想像されているより、心の在り方というものは体に影響してしまうんです。特に明美さんは肺への負荷がかかりやすい状態ですから、できるだけ穏やかにお話していただけると」
事情があることは察していますが、と理解を示しながらの医師を、無理っすね~と笑ったのはルビーだった。
「あたしが行けばまた昨日みたいになっちゃうかも。でも会わなきゃいけない。つか、逃げられないし、ケリをつけないと。あの人もそう思ってるだろうし。覚悟してるんじゃないかな」
では、何かあればすぐに駆け付けられるようにしておきます、と諦めたように送り出されて今。ルビーだけの方がよくない?と聞いたともみに、3人で入りたいと即答したルビーが扉を開け、ともみとミチもその後に続く。
レースのカーテンから陽光が差し込むベッドで、明美は眠っていた。今日は酸素マスクをつけていない。ゆっくりと歩み寄ったルビーは、規則正しい寝息を見下ろす位置でピタリと止まった。
身動きをとることを禁じられたかのように、ただ立ち尽くすルビーを、少し離れたところから見守り、5分ほどが経っただろうか。
「……ル、ビー、ちゃん?」
「夢…?」と弱々しく首を動かした明美が、ルビーを見つめている。けれどルビーは何も答えない。代わりにともみが、「おはようございます、また来ちゃいました」と、夢ではないことを伝える。するとようやく…現実にピントが合ったかのように明美は喜び、手元のボタンを押して、自動ベッドの上半身を起こした。
昨日とは別人のように穏やかなその表情と呼吸にホッとしたとき、ミチにクイっと袖を引かれ、ともみはベッドの真正面に位置する窓際のソファーに促された。さらにミチは、ベッドサイドにルビーのための丸椅子を運んでから、自分はともみの横に座った。
2人で並んで見守るこの状況が、まるでルビーの授業参観にきた保護者のようではないかと、ともみは少しだけムズムズした気持ちになった。
「昨日はびっくりさせちゃってごめんね」
明美の声はかすれてはいたけれど、随分と張りが戻っていた。昨日がルビーとの最期になると覚悟していたのかもしれない。「また会えて本当にうれしい」とルビーに、「お2人もありがとうございます」と、ともみに向けられたその笑顔には驚きと興奮が混じっていた。
「あ、お腹すいてない?朝ごはんは食べた?」
何かカフェで買って来ようか?とせっかちにベッドを降りようとした明美の体を、ルビーが面倒くさそうに抑えた。
「点滴に繋がれてるくせに、やめてよ」
「あらこの点滴って動くのよ、連れていけるの」
「連れていけるって…ペットじゃないんだから」
「やだ、ルビーちゃんって面白い」
「面白いとかじゃなくて、そもそもお腹は空いてないからいりません」
明美さん――あなたの娘はホテルでしっかりと朝食をとったのに、車の中でおにぎり(しかも特大)も食べているので心配ご無用ですよ、と心の中で突っ込みつつ、テンポよく続く母娘のやりとりが意外で、ともみはミチと顔を合わせた。
「…ほんっとアンタって、いらいらするしムカつく」
「ごめんね」
「そのごめんもムカつくの」
「ごめんなさい。あ、また言っちゃった」
ふふふとご機嫌な明美とは対照的に、ルビーはむくれた表情を変えない。けれど膝の上で組まれたその指先は、せわしなく落ち着きがない。聞きたいことも言いたいことも、言葉を選べずにいるのかもしれないと思うと、がんばれ!と、ともみは声を出して応援したくなる。
一方の明美は、全てがふっきれたかのように無邪気に微笑んでいる。
「今日はルビーちゃんにたくさん甘えちゃお」
「は?」
「ルビーちゃんにお願いがあるの」
「アンタ……何言ってんの?」
これでもかというほどに眉をひそめたルビーに構わず、明美はその両腕を大きく広げた。
「まずは…抱っこさせてくれない?」
チューブに繋がれた細くて白い腕が、精一杯ルビーへと伸びた――が。
特大の「は?」をもう一度発したルビーが、ふざけんな、と唸った。
「調子に乗んないでよ」
「分かってる。でも、ほら、一回だけでいいから」
「アンタのこと、許したから来たわけじゃないよ」
「分かってるよ」
「でも、本当に一回だけでいいの」と明美がまたルビーに向かって両手を広げた。透けてしまいそうな頼りない腕が、折れそうな手首が、フルフルと震えている。その痛々しさから逃げるように目を反らしたルビーが、「絶対にいやだ」と呟くと、明美は、その手がぽとりと落として、「やっぱり、だめかぁ」と笑った。
「じゃあさ、次のお願い」
くじけない明美になぜかともみがホッとする。今度は明美に、諦めないで!と声をかけたくなっている。
「アンタ…マジで何なの。ずうずうし過ぎるでしょ」
「ルビーちゃんがここにいるのがうれし過ぎるから」
「……っ。なんなんだよ、もう」
ルビーが、キャスターのついた丸椅子をくるりと体ごと回して、明美に背を向けたけれど、気にする様子もなく続けた。
「ルビーちゃん、小さい時、私のことなんて呼んでくれてたか覚えてるかな?」
微動だにしないルビーをしばらく待って、その背に明美は続けた。
「私が自分のことを、お母さんがね、って言ってたから、それを真似してね。話せるようになってからは、カータン、って呼んでくれてたの。カータン、カータン、って、もう本当に可愛くて、愛おしくって」
黙ったままのルビーがどんな顔をしているのか、ともみからも見えなかった。でもその頃のルビーがどれほど可愛いかったのか、ともみにも見える気がして胸がつまった。
「ずっとそのまま、カータンって呼び続けて欲しかったんだけど、5歳の時に、はじめてお母さんって言ったの。幼稚園で覚えてきたんだと思う。もう舌ったらずなあの“カータン”は聞けないのかぁって、寂しくもなったけど、お母さんって響きに、めちゃくちゃ感動したし、こうやって少しずつお姉さんになっていくんだなぁって嬉しくて。私もお母さんとして成長しなきゃって……」
ほんの一瞬…その笑顔を歪ませた明美が天をあおぎ。なにかを振り切るように続けた。
「でも私が、沢山、沢山、間違えちゃって…ルビーちゃんにお母さんって呼んでもらえる日々を手放してしまった。情けないし、本当に、本当に、取返しのつかないことをした。心から申し訳ないと思ってるし、許してもらえないことだってわかってる」
でも、今日だけ…と絞り出すような声が、切実にルビーへと向かう。
「一度だけでいいの。今日、もう一度だけ――お母さんって呼んでもらえないかな?」
ルビーが6歳の頃、明美は心の病を発症した。自分を裏切った男に似ていく娘を見ればPTSDにより呼吸困難などの発作が起きる可能性があった。命の危険もあるということから母娘は引き離され。以来、共に暮らすことができなくなった。
つまり、お母さんと呼んだのも、呼ばれたのも、わずか1年ほどの間だけ、だったということだ。幼いルビーが、母を諦めたのは一体いつだったのだろう。今更ながら、ともみは息が詰まるほどに苦しくなり、ルビーのその背を見つめることしかできなかった。すると。
「…んな」
ルビーは何かを呟くと、その背を震わせ、大きく息を吐き出した。そして叫びと共に立ち上がった。
「…ふざけんな!」
怒りで椅子が勢いよく滑り、壁にぶつかると派手な音を立てた。
「さっきから自分勝手なのもいい加減にしろよ!」
「…うん」
「アンタのこと、許さないっつってんだろ!!」
「…うん」
「オカアサンなんて、アタシにはいないんだよ!!!」
「わかってる。わかってるの。でもこれが…」
きっと最後だから、と続けるはずだったのだろうか。その言葉を飲み込み明美はまっすぐにともみを見つめた。睨まれてもそらさず、どれくらいたっただろうか。ルビーの嗚咽が聞こえたかと思うと、その影が動き――明美を包み込んだ。
「…わぁ…ルビーちゃん」
「…」
「私の腕じゃ足りないくらい……大きくなったんだね…」
「……」
へへへと眉を下げた明美の笑顔が、ルビーの肩口でぐしゃりと歪み、こらえきれずに涙がこぼれた。2人の嗚咽が重なる。その光景を遮るように、ぬっと、目の前に出されたハンカチに、それがミチの手で、自分も泣いてしまっていたことにともみは気づいた。
「ここから先は、2人きりのほうがいいだろ」
ミチが立ち上がり、ともみもそのあとに続いた。静かに扉を閉め、病室の前の廊下で待つことにした。
「遅すぎる、ってことはないもんだな」
長い足を持て余すように窓際にもたれたミチが、ぼそりと呟いた。けれどともみは、防音の効いた扉からでも漏れ聞こえるほど大きく、子どものように泣き叫び続けるルビーに――2人の再会がもう少しだけでも早かったら…と思わずにはいられなかった。
▶前回:旅先のホテルのスイートルームで明かされた秘密。彼女が捨てられた本当の理由とは
▶1話目はこちら:「割り切った関係でいい」そう思っていたが、別れ際に寂しくなる27歳女の憂鬱
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