◆これまでのあらすじ
恋人同士の正輝(30)と萌香(27)は、お互いに深い愛情で結ばれている。しかし正輝には性別を超えた親友・莉乃(30)がいた。
莉乃と正輝の関係を快く思わない萌香は、もう莉乃と会わないよう正輝に約束させる。束縛しすぎかも…という懸念から男女の友情を実感するため男友達と飲みに行ってみるものの、男友達からはホテルに誘われるのだった。
その姿を偶然目撃していた莉乃は、正輝に事実を伝えるか葛藤。一方の正輝は、メンヘラ化する萌香を安心させたい一心で結婚を考え始め…。
▶前回:友人の恋人の“秘密”を目撃した夜。真実を友人に知らせるべきか、葛藤する女心
Vol.11 <萌香>
窓一面に広がる六本木の夜景。
真っ白なシーツがかかったキングサイズのベッド。
その白と鮮やかなコントラストを成す、真っ赤な花びらで形作られたハート。
ハートの中心に置かれた、抱えきれないほど大きなバラの花束…。
感激のあまり言葉を失う私に、背後から正輝くんが呼びかける。
「萌香。俺と結婚してくれる?」
照れくさそうに、だけどはっきりとしたよく通る声でそう言ってくれた正輝くんが差し出したものは、重厚なネイビーの箱だった。
その箱が、まるで扉が大きく開け放たれるかのように左右に大きく開く。中心で、約束された未来みたいに輝くダイヤモンドリング。
何もかもが夢みたいで、とても信じられなくて───嗚咽が込み上げてくる喉と口元をぎゅっと押さえながら、私は声を振り絞る。
「はい…!私、私、ずっとこの時を待ってた」
唇と唇が近づく。とろけてしまいそうな幸福に身を任せるため、私は瞼をゆっくりと閉じかける。
だけど、瞼が閉じ切ってしまうその寸前。
うっすらとした視界に飛び込んできたのは、なぜかあの夜の中村くんの顔で…。
「ね。ちょっとだけ、部屋に上がっていってよ…」
粘つくような中村くんの吐息が、耳にかかった瞬間。私は思わず叫び声を上げた。
「いや…───っ」
「いやっ!」
自分の声に驚いて飛び起きる。
すると目の前に広がっている光景は、六本木のラグジュアリーホテルの部屋でもなく、あの夜の恵比寿の街でもなく、よく見慣れた市ケ谷の実家の自室なのだった。
「ああ、最悪な夢…」
ぐっしょりと汗ばんだルームウエアの胸元を握りしめながら、自分自身に言い聞かせる。
バクバクと飛び跳ねる心臓を両手で押さえると、手元に硬い感触を覚えた。
左手の薬指に光る、ダイヤモンドリングだ。
「…よかった。これだけは、夢じゃなくて」
季節は、いつのまにか秋の終わりに差し掛かっていた。ベッドからフローリングの床に降りたつま先が、ひんやりと冷たさを感じる。
「お風呂入ろっと」
冷や汗をかき強張った体を温めるため、バスタブにお湯を張る。
ローズの香りの入浴剤を入れたお湯の中で、ダイヤモンドリングはますますキラキラと輝いて見えた。
― プロポーズをしてもらえるなら、最短で1年記念日かなぁ。期待しすぎ?
ハロウィンが終わり、街を彩るディスプレイはクリスマス一色に変わっていく。
そんな中でつい最近まで正輝くんとの将来について日々ヤキモキしていたというのに、正輝くんが私にリングをくれたのは、11月に入ったばかりの何でもない週末の日だった。
付き合って7ヶ月。まさかこんなタイミングで、あんなに素敵なプロポーズをしてもらえるなんて。
何度思い返しても信じられない気持ちになってしまう私は、寝る時もお風呂に入る時もこうして肌身離さず身につけている。
そうでないと、あっという間に現実味を失ってしまうから。
まさか正輝くんが、“あんな状態”の私との結婚を決めてくれるだなんて。
正直に言えば、ここのところの私のメンタルはとても正常じゃなかったと我ながら思う。
あれだけ仲の良かった莉乃さんと正輝くんの間を、私の束縛で遠ざけた。
その負い目から中村くんと2人で飲みに行き、そして────受け入れてしまったのだ。
中村くんの、キスを。
しつこくホテルに誘われた時の、腰にまとわりつく手の感触が忘れられない。
自暴自棄な気持ちで油断してしまっていたとはいえどうして、たった一瞬だけでも中村くんを受け入れてしまったのだろう。
「やだ、帰る」
キスをした瞬間。強い嫌悪感とともに一瞬で現実に引き戻され、どうにかこうにかホテルから逃げることができたのは、本当に幸運だったと改めて感じる。
「飲みすぎちゃったみたいで、変な態度とってごめん!昨日のことは忘れてほしい」
翌日、深々と頭を下げながら謝罪されたことで、中村くんと私の間ではあの一件は無かったことになっている。
だけど、私の心の中では…到底無かったことにはならない。
中村くんとの間に起きた事故のようなキスは、私の気持ちをすっかり黒く染めてしまった。
― やっぱり、男女の間に友情なんてない。
もうこの考えは、決して私の中で変わることはないだろう。
何年もの間まったく男性として見ていなかった中村くん。そんな中村くんから酔いに任せて迫られた事実は、筋違いなようだけれど、正輝くんと莉乃さんに対する私の嫉妬心をますます浮き彫りにすることになった。
いい歳をして正輝くんのことを束縛するのが恥ずかしくて、一度は理解しようとしたけれど…今は、なおさら許すことができない。
気がつけば私の嫉妬深さは莉乃さんだけにとどまらず、正輝くんと離れている時はいつだって、疑心暗鬼に陥るはめになってしまったのだ。
仕事が遅くなった。会食の予定がある。実家に帰る用事がある…。
正輝くんから「会えない」「電話できない」と言われると、すぐに不安になってしまう。
だって、同期の中村くんと飲みに行ったあの夜、他でもない私が、正輝くんにそんなふうに説明したから。
「今日は男友達と2人で飲みに行くよ」と、正輝くんに事前に一言でも伝えられていたのなら、少しは違ったのかもしれない。
だけど、「莉乃さんと2人で会わないで」と束縛している私が、そんなこと言えるわけがない。
結果私は、彼氏に内緒で男友達と2人で飲み、内緒でキスをした女に成り下がった。そのせいで、正輝くんのことも信じられなくなった。
自業自得って、まさにこういうことを言うのだろう。
それに、正輝くんに会えない時に不安になってしまう理由は、もうひとつあるのだ。
あの夜。自暴自棄で投げやりな気持ちに襲われる意識の中で、一瞬だけ視界に入った気がする顔…。
道の反対側にいたのは、莉乃さんじゃなかっただろうか?
― まさか、そんな偶然ある?酔ってたし、暗かったから見間違えただけだよね?
何度も自分に言い聞かそうとしたけれど、莉乃さんのピラティススタジオは恵比寿だった気がするし、あんなにスタイルがいい人、そうそういるものじゃない。
考えれば考えるほど、莉乃さんで間違いないような気がしてくる。
― どうしよう。もし、正輝くんに伝わったら…。ううん。でも、もうふたりは連絡取ってないよね?大丈夫だよね?
そんな不安が募りに募って、つい「陰でこっそり莉乃さんに会ったりしてないよね?」なんて聞いてしまった日には、自己嫌悪のあまり死にたくなった。
紛れもない、メンヘラ彼女。
こっそり莉乃さんに会ってるんじゃないかと思ったら気が気じゃなくて、正輝くんにはすごく負担をかけてしまっていたと思う。
それなのに…そんな重い女以外の何者でもない私に、正輝くんはプロポーズをしてくれたのだ。
今でも信じられないけれど、薬指に輝くダイヤモンドが、私に自信と安心を与えてくれる。
もしも莉乃さんから変なことを聞かされていたとしたら、正輝くんが私にプロポーズなんてしてくれるわけがない。
「幸せ…」
温かな湯船の中でそう口に出してみると、実感は一層深まる。
「萌香、まだお風呂入ってるの?そろそろ正輝さんが迎えに来てくれる時間なんじゃないの?」
長風呂に呆れたママの声が、バスルームの外から聞こえる。
はーい、と返事をして、身支度に取り掛かった。
「ねえ、この格好変じゃない?前回よりカジュアルな格好にしてみたんだけど」
「大丈夫、萌香は何着てても可愛いよ」
「そういうんじゃなくて!この前お会いした時はお義母さん、私のことなんて言ってた?」
「いい子だねって言ってたよ」
正輝くんの運転するご実家のワーゲンゴルフの助手席で、私は何度も前髪を直した。
プロポーズの直後、ご両親とはレストランで一度ご一緒したけれど、今日は初めて吉祥寺のご実家にお邪魔するのだ。
年末に出産を控えているお義姉さんとは、初めてお会いすることになる。これから義理の姉妹になるのだから、何がなんでも気に入られたかった。
「ああー、やっぱりパンツじゃなくてスカートの方が良かったかも…」
ああでもないこうでもないと気を揉んでいると、正輝くんがクスッと小さく笑うのが聞こえた。
赤信号で止まったかと思うと、不意に私にキスをくれる。そして、優しい声で言うのだった。
「萌香は、色々気遣いすぎ。大丈夫だよ。俺が好きになった人なんだから、絶対気に入られるに決まってる」
正輝くんは、不思議だ。正輝くんにそう言われると、私はいつだって簡単に幸せになってしてしまう。
だけど私は、ついに“婚約者”になった正輝くんに甘やかれるのがなんだか照れ臭くて、つい茶化してしまうのだった。
「もう、調子のいいことばっかり言う。なんかやましいことでもあるんですか?」
その、瞬間だった。
アクセルを踏むのと同時に、正輝くんの表情が少しだけ変わるのを感じた。
妙な雰囲気を感じた私は、鬱陶しいと自覚しつつも、ここ最近の癖からか踏みとどまることができずに聞いてしまう。
「え、なに?本当に、なんかあるの…?」
「いや、やましいってわけじゃないんだけどさ…」
じっくりとお風呂で温まったはずの体が、指先からスーッと冷えていくような感覚を覚えた。
だけど、次に続ける言葉も思いつかない私は、正輝くんが切り出すのをじっと待ち構える。
もう一度、車が止まった。赤信号のライトが、頭上で光っている。
少し気まずそうに眉を下げた正輝くんが、私の反応を横目で見ながら言った。
「一度だけ、莉乃とお茶だけしてきてもいい?明日の昼。
なんか、話があるらしくて───」
▶前回:友人の恋人の“秘密”を目撃した夜。真実を友人に知らせるべきか、葛藤する女心
▶1話目はこちら:「彼氏がいるけど、親友の男友達と飲みに行く」30歳女のこの行動はOK?
▶Next:10月6日 月曜更新予定
ついに婚約者となった萌香と正輝。そんな矢先に、久々に莉乃に会うことにした正輝は…

