8月1日より、東京都内の銭湯(一般公衆浴場)の入浴料金が値上げされた。大人料金(12歳以上)が550円から600円へと値上げ。他方で中人(6歳以上12歳未満)200円、小人(6歳未満)100円は据え置き。2024年8月以来、2年ぶりの値上げとなる。
今回の値上げは7月21日に発表された。理由として、エネルギー価格や原材料価格の高騰等の厳しい経営環境が挙げられる。
市場原理が重視される資本主義社会では、モノ・サービスの価格は市場原理の下、自由に決定できるのが原則である。その中で、銭湯の料金の値上げが統制されていることは、異例といえる。なぜ、このようなしくみになっているのか。
今や「物価統制令」の唯一の対象…どう決まるか
今回の値上げを前に、東京23区内で銭湯を経営するAさんは、「本音をいえば、値上げは歓迎ではありません」と明かした。
「たしかに、燃料代が高騰しているので経営は苦しいです。でも、値上げするとお客さんが来なくなるおそれがあります。値上げが良いことだとはいえません」
実は、銭湯の価格は「物価統制令」の唯一の対象となっている。物価統制令は、終戦直後のいわゆる「ポツダム勅令(※)」の一つであり、不安定な経済状況の下で国民生活の安定を図るため1946年(昭和21年)に制定された。
※終戦直後、GHQによる占領下で、GHQの要求事項を国内で迅速に実施するため、勅令として定められたもの。物価統制令は1952年以降、法律と同じ効力をもつ。
かつては様々な物資が対象となっていたが、現在も物価統制令に基づき物価統制が行われているのは、銭湯の料金だけである。細かい法令の適用関係は省略するが、最終的には都道府県知事が統制額(入浴料金)を指定することになっている。
東京都の場合、統制額の決定は、公衆浴場経営についての「会計調査」を行い、「東京都公衆浴場対策協議会」の意見を聴取し、「総括原価方式」により算定する。
総括原価方式は、電気・ガス・水道といった公共料金の算定にも用いられている。
会計調査は、都内の銭湯のなかから、使用燃料、排水、用水、入浴料金収入の面で標準的な40軒程度を選定し、その直近1年間の決算書、会計帳簿等を調査・分析して行う。
なぜ、「統制」の対象なのか
銭湯の料金が今なお物価統制令の対象とされているのはなぜか。「銭湯大好き」を自認し、行政法に詳しい荒川香遥(こうよう)弁護士(弁護士法人ダーウィン法律事務所代表)は、第一に、経済的弱者保護の観点からの政策という側面がきわめて強いと説明する。
荒川弁護士:「今なお、自宅に風呂がない世帯は数多くあります。特に都市部では顕著です。風呂なし物件の多くは老朽化しており、家賃相場もかなり安いので、いわゆる経済的弱者に属する人が多く住む傾向があります。
風呂に入ることは、憲法が国民に保障している『健康で文化的な最低限度の生活』を送るうえでも、特に必要最低限の条件だといえます。実際、人は定期的に風呂に入らないと不潔だし、病気になりやすいのは間違いありません。
また、入浴しないことは当人だけの問題では済みません。入浴して体を清潔に保たなければ伝染病になりやすく、社会に流行する原因にもなり得ます。
だから、お金のない人でも定期的に銭湯に行けるように、支払える料金に設定する必要があるのです。
なお、料金を統制する代わりに、国や自治体は銭湯に対して手厚い支援を行っています。たとえば、東京都では、バリアフリー化、使用燃料のクリーンエネルギー化、耐震化などについて経費の一部を補助しています。また、設備の改善のために借入をした場合に利子の一部を補助するなどしています。
さらに、最近の原油価格高騰に際しても、燃料にかかる経費を補助しています」
既存の業者を守る「距離制限」も
既存の事業者を守る規制としては、開業時の「距離制限」も挙げられる。
銭湯(公衆浴場)を開業するには、都道府県知事の営業許可を受けなければならない(公衆浴場法1条)。この許可は「公衆浴場の設置の場所が配置の適正を欠くと認めるとき」は与えなくてもよいとされている(同法2条2項)。そして、「配置の適正」を判断するための「配置基準」は都道府県等の条例で定めることとされている(同条3項)。
これを受け、東京23区では「200m以上」の距離制限がおかれている(【画像】参照)。
もし、この距離制限に反し、許可を受けずに営業した場合には「6か月以下の拘禁刑または2万円以下の罰金」に処せられる(公衆浴場法8条1項)。
刑事訴訟で、この銭湯の距離制限規定が憲法違反ではないかと争われたことがある(最高裁平成元年(1989年)1月20日判決)。
被告人Xは、大阪市内での公衆浴場の営業許可を申請し、距離制限規定を理由に不許可とされたにもかかわらず、市内で公衆浴場を営業し、公衆浴場法違反の罪で起訴された。
訴訟のなかでXは無罪の理由として、距離制限規定が営業の自由を侵害し憲法違反だと主張した。
最高裁は距離制限を「合憲」とし、Xを有罪とした。その理由をまとめると以下の通りである。
①家に風呂がなく公衆浴場に依存している住民の需要に応えるため、公衆浴場の維持・確保を図る必要がある
②公衆浴場の経営が困難になっている今日では、一層その重要性が増している
③公衆浴場業者が経営の困難から廃業や転業をするのを防ぎ、健全で安定した経営を行えるようにすることは公共の福祉に適合する
④そのための手段として、距離制限には十分な必要性と合理性がある
荒川弁護士:「ここでも、経済的弱者の保護の要請が打ち出されています。最高裁も、家に風呂のない人でも健康的かつ衛生的に生活するうえで、銭湯は必要不可欠なインフラと位置付けたのです。
また、銭湯業者の多くは、家族で細々と経営しています。経営基盤は決して強いとはいえません。
最高裁は、これらの事情を考慮して、銭湯業者どうしの『共倒れ』を避け、経営を安定させるため、なお距離制限規定が必要だと判断したといえます」
さまざまな要因が重なって燃料費が高騰するなか、銭湯の経営が苦しくなっていることは間違いない。銭湯という公衆衛生を維持するインフラを助けるためにも、江戸時代から続く銭湯文化を守るという意味でも、たまにでも銭湯を利用することは、大きな意義があるといえよう。
本文中で紹介した銭湯店主のAさんは、記者にこう話した。「値上げをしても、今までと変わらず、銭湯に足を運んでください。それが一番嬉しいです」

