やまゆり園事件から10年。乙武洋匡が問う「私たちの心にも“植松聖”が棲んでいるのではないか」の真意

やまゆり園事件から10年。乙武洋匡が問う「私たちの心にも“植松聖”が棲んでいるのではないか」の真意

’16年7月26日、神奈川県相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で、入所者である障害者19人が刺殺された事件から10年がたつ。事件の加害者であり同園元職員でもあった植松聖は’20年に死刑判決が確定しているが、’26年7月末時点で、刑は執行されていない。

作家の乙武洋匡氏は、やまゆり園事件を犯人個人の異常性だけで片づけるのではなく、私たち自身も無意識のうちに「役に立つ、立たない」「迷惑をかける、かけない」で人の価値を測っていないかを問い直すべきだと訴える(以下は乙武氏による寄稿)。

やまゆり園事件から10年 乙武洋匡
写真/産経新聞社

◆私たちの心にも植松聖が棲んでいるのではないか

 やまゆり園の事件から、10年の月日がたった。犯人の植松聖(さとし)は、意思疎通のできない障害者を「心失者」と呼び、さらに彼らの存在は「不幸をつくる」と主張した。独り善がりの思想に基づいて多くの命を奪う、あまりにおぞましい蛮行だった。

 しかし、この10年、私が向き合い続けている問いがある。それは「私たちの心にも植松聖が棲んでいるのではないか」というものだ。

もちろん殺人など犯さなくても、私たちは「人に迷惑をかけないこと」を過度に美徳とし、社会人としての前提条件を「自立できる人」とする社会に生きている。すると、その延長線上には、当然ながら「では、何もできない人の命にはどんな価値があるのか」という疑問が湧いてくる。この問いに、どう答えたらいいのか。

◆「役に立つ命」だけが許される社会にしないために

 たとえば私自身は重度障害者のはしくれだが、幼少期から「乙武くんはすごい」「手足がないのにいろんなことができる」と称賛されてきた。子どもの頃は素直な気持ちで喜んでいた。だが、大人になってからは同時に疑問を抱くようになってしまった。もしも私が「食事もできない」「字も書けない」障害者だったら、私の価値は変わっていたのだろうか、と。

「優生思想など、とんでもない」ことだと、誰しもがもちろん、頭ではわかっている。だが、私たちは日々の生活のなかで無意識のうちに「生産的か、非生産的か」で物事を判断する場面が多く、誰かに視線を向けたときには、ついつい「役に立つ、立たない」「迷惑をかける、かけない」などというフィルターをかけてしまう。誰も悪くない。仕方がない。みんな、余裕がないのだから。と、逃げ道を用意してしまう。

 やまゆり園の事件を語るとき、必ず「命は大切だ」「共生社会を実現しよう」といった言葉が並ぶ。もちろん、それ自体は間違っていない。だが、その言葉だけでは足りない。なぜなら、優生思想は社会の外から狂気を伴ってやってくるのではなく、私たちの日々の生活のなかで、家庭で、教室で、会議室で、「この人にどこまでコストをかければいいのか」という言葉とともに、ゆっくり芽生えていくものだからだ。

 事件から10年。重要なのは、犯人の異常性をあらためて確認し、糾弾することだけではない。自分のなかにも小さな優生思想の芽があるかもしれない、と疑うことだ。役に立つから生きていてもいいのではない。迷惑をかけないから存在を許されるのでもない。ただ、生きている。その事実だけで、誰の命も奪われてはならないのだ。

乙武洋匡
乙武洋匡
<文/乙武洋匡>

【乙武洋匡】
1976年、東京都生まれ。大学在学中に執筆した『五体不満足』が600万部を超すベストセラーに。卒業後はスポーツライターとして活躍。その後、小学校教諭、東京都教育委員などを歴任。ニュース番組でMCを務めるなど、日本のダイバーシティ分野におけるオピニオンリーダーとして活動している
配信元: 日刊SPA!

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