
定年退職とは、「会社員」という最大の役割を終える日です。しかし、夫が初めて“個人”として家庭と向き合ったとき、そこに自分の居場所がないと気づくことも……。本記事では、恵子さんの事例とともに、定年後に訪れる“心の再編”について合同会社エミタメの代表を務めるFPの三原由紀氏が解説します。※相談事例は本人の許諾を得てプライバシーのため一部脚色しています。
退職金通帳を見つめた夜、夫が告げた本音
結婚35年。夫・誠さん(仮名/60歳)の定年退職を祝う夕食を囲んだ翌日、恵子さん(仮名/58歳・専業主婦)は「離婚したい」と告げられました。
誠さんは化学メーカーに38年間勤務。退職金2,100万円が振り込まれ、住宅ローンの残債900万円も一括完済したばかり。長男(32歳・既婚)も次男(29歳・独身)も独立し、これからは夫婦2人で穏やかな日々を――と思っていた矢先の出来事でした。
「どうして? なにか気に障ることでもあった?」と尋ねる恵子さんに、誠さんは静かに本音を語りました。
「お前の愛情が感じられない。料理や家事だけじゃなくて、もっと心でつながりたかった」
恵子さんは愕然としました。毎日三食を手作りし、夫の健康診断の数値を気にかけ、血圧が高めだとわかれば減塩メニューに切り替える。シャツのアイロンがけは毎朝欠かさず、季節ごとに衣替えも完璧にこなしてきました。そうした気配りこそが「良妻」であり、愛情の証だと35年間信じてきたのです。
しかし誠さんが求めていたのは、恵子さんの“良妻像”とは異なるものでした。
「俺が会社でどんな仕事をしているか、聞いてくれたことがあったか? 異動の話をしても『そう』で終わり。定年が近づいて不安だったときも、お前は今日のお弁当はどうだったか、明日のお弁当はなにがいいか、そんな話ばかりだった」
誠さんの言葉は静かでしたが、その奥には35年分の寂しさが滲んでいました。一方で、恵子さんにも彼女の思いがありました。
「私の愛情は、ちゃんと届いていなかったの……?」
毎日のお弁当も、クリーニングに出したスーツも、すべては夫を想ってのこと。その“心”は少しも届いていなかったのか。恵子さんは、35年かけて築き上げたものが、砂の城のように崩れていくのを感じました。
長年の生活の中で、夫婦は知らぬ間にそれぞれ別の方向へと思いや意識が傾きはじめていたのです。気づいたときには、もう手を伸ばしても届かないほどの“心の距離”になっていました。
他人事ではない「定年離婚」…移行期に気をつけたい4つの変化
実は、こうした高齢夫婦の“退職離婚”や“卒婚願望”は決して珍しくありません。
厚生労働省の「離婚に関する統計」によれば、同居期間20年以上の夫婦の離婚件数は年間約3万8,000組。全離婚件数の約2割を占めています。さらに、同居期間35年以上の離婚件数は、1980年以降増加を続け、近年は高止まり傾向です。
「定年を機に別の人生を歩みたい」と考える熟年世代が増えており、背景には「年金分割制度」の定着も影響していると推察されます。
また、学術的にも、中年期から高年期への移行期は「心理的」「身体的」「家族的」「職業的」な4つの変化が重なる時期とされています。体力の衰えや健康不安、子どもの自立や親の介護、そして定年などの職業的変化――。これらが同時期に重なって訪れることで、誰もが自分の生き方や夫婦関係をみつめなおす転機を迎えるのです。
発達心理学では、この時期に「個別化(社会的役割から離れ、自分の生き方を再定義する)」が進むとされます。
妻が「自分の時間を持ちたい」と感じる、また、夫が「もう一度自分の人生をやりなおしたい」と思うのは、ごく自然な変化なのです。「中年期から高年期への自然な移行期」であり、誰もが通る道でもあります。問題は、その変化をどう共有し、どう受け止めるかという捉え方の面です。会話を避けたままでは、関係の更新が難しくなるでしょう。
