港区・西麻布で密かにウワサになっているBARがある。
その名も“TOUGH COOKIES(タフクッキーズ)”。
女性客しか入れず、看板もない、アクセス方法も明かされていないナゾ多き店だが、その店にたどり着くことができた女性は、“人生を変えることができる”のだという。
タフクッキーとは、“噛めない程かたいクッキー”から、タフな女性という意味がある。
▶前回:元恋人同士が、温泉旅館で2人きりに。「これ夢でしょ?」震える彼女を思わず抱き寄せた夜
「大輝、くん?」
腕に落ちてきたキョウコの、腕が力なく伸びて大輝の頬に触れた。指先の冷たさに驚きながら、「はい」と頷いた大輝に、見上げる瞳がふっと緩んだ。
「…夢、ね」
「キョウコさん?」
「分かってる…でも」
「…?」
「…もう少しだけ、こうしてて」
キョウコは大輝のスウェットの胸元を固く握りしめた。規則正しい寝息を立て始めても、その力は緩まなかった。腕の中で小さく丸まる体温とともに微かな〇〇が香る。キョウコが愛用していたボディオイルのものだと、不意に胸をつかれた大輝は、香りは思い出の起爆装置だと書いた小説があったことを思い出す。
大輝は別れた女性たちを憎めたことがない。
いつも愛想をつかされるのだから、自分が何か間違えたのだろう。嫌いになって別れたわけではないし、一度は誰より愛おしかった人を邪険に扱うことなどできなかった。それに今は。
― 顔色が悪すぎる。
元々水色のように透けた肌の持ち主ではあるけれど、それにどこか土色が混じってしまったように血の気が引いている。腕の中で寝息を立てるキョウコに、しばらくの間、身動きが取れずにいたが、先ほど電話をかけたキョウコの夫・崇からも折り返しがない。
― とりあえず…ちゃんと眠らせよう。
2人の脚本家のために用意された旅館の離れ。いわばリビング的なこの部屋を区切るふすまの向こうに、おそらく寝室があるはずだと、大輝のスウェットを掴んだままのキョウコを抱きかかえたまま立ち上がる。
和室に合わせてデザインされた背の低い、大きなキングサイズのベッドが1つ。そこに静かにキョウコを寝かせて、離れようとスウェットを掴んでいた細い指を一本ずつ剥がしていたその時、ゆっくりとキョウコの瞼が開いた。
「あ…起こしちゃいました?」
大輝の問いかけにもキョウコの焦点は定まらない。
― 寝ぼけてる。相当睡眠不足だったんだろうな。
キョウコは作業に集中すると、寝食を忘れ徹夜を続けてしまうし、そのかわり一度眠るとまるで子どものように寝ぼけてしまうし、覚醒までに時間がかかることを大輝は知っていた。
「ひとまずちゃんと寝てください。少ししたら起こしますから」
ベッドサイドの灯りを最小にして離れようとしたとき、キョウコが何かを呟いて、もう一度その顔を覗き込み、耳を寄せる。
「どうしました?」
「…今、幸せ…?」
キョウコの目尻から涙が落ちた。
「…え?」
「…幸せなの?」
濡れた瞳で繰り返され、伸びた腕が大輝の袖口をぎゅっと掴む。そのうちにまたキョウコの瞼が閉じられても、大輝はその場をしばらく離れることができなかった。
◆
眠りが深くなるのを待ってから、大輝は執筆に戻る前にフロントに電話し、医師を手配してもらった。30分ほどでやってきたのは白髪の美しい女性で、首筋や手首、そして瞼の裏をチェックしたあと、大輝の背をバンバンと老齢とは思えない力で叩いて叱った。
「なんでこがんなるまでなんでほったらかしにしとったと?このお嬢さんは、東洋医学でいうと、気血両虚(きけつりょうきょ)っていう状態ばい。体の前に気力が弱りきっとる。悲しかとか、苦しかとか…相当なストレスを抱える出来事があったとけ、それを隠してずーっと耐え続けてきたって感じやね」
「ここにね」と、自分の胸を刺した医師は、キョウコの夫か恋人だと思ったのだろう。大輝をまるで自分の孫かのように叱りつけた。宿のスタッフが慌てて「お2人はお仕事の仲間ということで…」と訂正したが、医師は納得しない様子で続けた。
「まあ、西洋医学的には、過労による貧血と寝不足ってとこやけん、点滴するほどじゃなか。このままぐっすり眠らせといて。でも起きたら、このお嬢さんが何を抱え込んでるのか聞いてやって。この人はたぶん相当我慢強い人やろうけん」
医師の診断というよりは魔女の予言のようだと思いながらも大輝は礼をいい、医師を見送ったあと携帯を見ると、崇からの着信が残っていてかけ直す。
「あ、ごめん大輝。電波のつながりにくい場所にいたみたいで、今着信の知らせがきた。なんかあった?」
明後日からの撮影現場になっていたログハウスと森が、土地の所有者の事情で使えなくなり、他の候補地で撮影が可能か監督の崇が直接確認に向かったらしい。プロデューサーの宮本も同行していたため、2人とも電話が通じなかったようだ。
キョウコが倒れて今眠っていることを説明すると、崇の声色が変わった。医師にも来てもらい、眠れば心配いらないらしいとの診断は伝えたけれど、大輝は“相当なストレス”のことを、なぜか口にすることができなかった。
「すぐに戻りたいけど…今日中にチェックしないと明後日の撮影に間に合わないこともあるし…」
崇と宮本がいる場所は、宿から車で2時間弱かかる県境らしく、明日も早朝からロケハンのため、今夜はそのまま近くに宿泊する予定だという。
「申し訳ないけど…今日は戻れない。悪いけど、妻のこと…頼むね。なにかあればすぐに連絡して」
そう言った崇との電話を切ると、大輝は部屋へ戻った。寝室のふすまをほんの少しだけ開ける。その静かな寝顔に、今、幸せかと呟いた、キョウコの涙目が重なった。
― あれは、俺に?
それともただ寝ぼけていただけなのだろうか。ならば、他の人に向けられた言葉なのかもしれない。答えのない疑問を浮かべながら。大輝はふすまを静かに締めて、キョウコはいつも多くは語らない人だったと、苦笑いで思い出す。
― 別れたときもそうだったな。
「守りたいものが、変わったから」
大輝が告げられた別れの理由は、たったそれだけ。それ以外は何も語らず、何度追いすがっても、ただ頑なに拒まれ突き放された。
けれど突き放しているはずのキョウコが本当に苦しそうで、大輝はいつしか諦めることを選び――自暴自棄に荒れた。そしてともみに慰められたのだ。
結局今でも、彼女が“守りたかったもの”は分からないまま。
キョウコは今も門倉の性を名乗っているし、崇も彼女のことを妻と呼ぶ。2人の関係が修復されたのかもしれないが、自分にはもう詮索する権利も理由もないけれど。
― ストレス…か。
その原因の1つは、オレかもしれない…と、医師の診断は、今更ながら大輝を申し訳ない気持ちにさせた。
世界的な映像監督、門倉崇と大輝が最も尊敬する脚本家の門倉キョウコ。この2人と共に全世界に配信される大型ドラマを作りませんか――という、抗いがたいオファーを大輝が受けたのは、キョウコと別れてから1年が経った頃だった。
「友坂くんがいいなら、一緒にやりたい。友坂くんとなら良い作品が書けると思うから」
凛と微笑んだキョウコの言葉にホッとし、夫婦と、妻の元恋人という3人での映画作りが始まった。夫と元恋人に挟まれて仕事をすることなど、普通は歪でしかないだろう。けれどキョウコも、そして大輝も、たぶんこの歪な状況に作家としての欲が燃えている。
2人なら、どこまで書けるのか。
かつて愛した相手とラブレターのように愛の台詞を交わす。それがキョウコの創る世界にリアリティを与え、それを受け取る大輝の紡ぐ世界にも共鳴する。虚構の中にリアルが混じり合い、1人では書けない、2人だから――恋人同士だったからこそ書ける世界へと広がっていく。それはきっと2人にしか分からない快感だった。
キョウコは脚本だと途端に雄弁になり、喜怒哀楽も激しい。恋人だった頃には知らかった顔に多々驚かされ、ケンカもして大輝はこれが同志というものかと嬉しくもなった。
― けど、歪は歪だから…キョウコさんには申し訳ない。
しかも、この歪な三角形の負荷が大きいのは大輝ではなくキョウコなのだ。魔女めいた医師に言われた通り、もしもキョウコが話してくれるなら…目覚めたら聞いてみよう、と大輝は1人PCを起動し脚本の続きを書き始めた。
◆
新たな撮影場所を確認し終えたのは24時過ぎで、大輝の電話からすでに3時間ほどが経過していた。移動車両には崇とプロデューサーの宮本。そして助監督とロケセットを作る美術スタッフ2名が乗っていた。
「キョウコさん、大丈夫ですかね…」
真っ暗闇な林の細道を走るバンの中で、プロデューサーの宮本がおずおずと崇に聞いた。さきほどから崇は、何度も携帯を見ている。崇がキョウコのことをどれだけ大切にしているかは、業界中の誰もが知っている。側にいられない自分が歯がゆいのだろうと、宮本は申し訳なくなった。
「今から車で戻れたりしないよね?」
崇に聞かれ、宮本はさらに眉を下げる。
「すみません、この時間から監督を向こうの宿に送るのは難しいです。明日の朝も早いですから…」
撮影クルーのドライバーには最低でも6時間の睡眠をとらせなければならない。今向かっているキャンプ場に併設された宿を明日の朝7時には出発することが決まっているため、これ以上の運転はさせられないのだと宮本は続けて説明した。
「じゃ、タクシーは…」
「この辺りにはいませんし、この時間には呼べません」
「だよね」
崇は諦めたように笑った。
「申し訳ないです。そのかわり友坂先生が側についてくださってますので」
「…大輝が?」
「はい、どうせ徹夜だからって、ちょくちょくのぞいてくださってるみたいで。ほら」
宮本が自分の携帯の画面を崇に見せた。1時間前に大輝から、キョウコはまだ眠っている「顔色がだいぶ戻ってきた気がする」とLINEが来ていた。
「キョウコは…どこで寝てるの?」
「執筆部屋の離れです。あそこに寝室もあるのでそこでお休みになっているそうです。友坂先生がその横の部屋で作業されているっていうことなんで、安心ですよね」
「…」
「監督?」
「あ、いや、大輝にお世話させちゃって申し訳ないね。オレからもお礼のLINEしとく」
ありがとうございます、と宮本が何に対する礼なのか謎の発言をしたとき、ガタンと大きく車が揺れた。
「宿まであと30分くらいですが、この先の山道が真っ暗なんで消させてもらいますね」
運転手が車内のライトを全て消すと、それが合図になったかのように静まり返り、そのうちに宮本のいびきが聞こえ始めた。木々さえ影でしか見えず、黒の濃淡に囲まれた山道はよく運転ができるなというほど、どんどん暗くなっていく気がする。
『キョウコの様子はどうかな?昔から根詰めると貧血にはなりがちだから、そんなに心配し過ぎることもないとは思うんだけど。ずっとついててくれてるんだって?ありがとね』
大輝に送ったLINEが既読にならない。携帯の青い光が闇の中では眩し過ぎて、崇は光量を下げながら苛立ち始める。
執筆部屋を用意したのは崇だ。けれどこんなはずではなかった。自分があの2人をコントロールするための舞台装置だったはずなのに、なぜ今その部屋で、弱ったキョウコの側にいるのが自分ではなく大輝なのか。
執筆中に倒れた細い体が大輝に抱かれてベッドに運ばれていく。その光景がまるで見たように脳裏に浮かび、胸が焼けるどす黒い熱を吐き出すように、崇はもう一度大輝にメッセージを送る。
宮城から戻ってきた翌日の午後。ともみはYUMEと2人で、六本木・ミッドタウンの側にある真壁リオの事務所を訪ねた。
世界を飛び回る音楽プロデューサーの事務所としては、レトロなビンテージマンション…と思いきや、13階建てのうち上2階を丸々買い取りリノベーションしたものらしい。内装はいわゆる海外から見た『ジャパニーズ・カワイイ』系で統一されていて、真壁が世界でどんな闘い方をし、どんなブランディングをしているのか、事務所を見ただけで一目瞭然というデザインだった。
― 好みじゃないけど、やっぱりセンスはいい。
真壁がプロデューサーとして成功しているのは、まずは自分自身に何が求められているのかをよく理解しているからなのだとともみは改めて思う。
再会は8年ぶりだというのに、真壁は大したリアクションも見せず、淡々と2人を応接室へと迎え入れた。金髪のショートカットに、垂れ目を強調するようなアイメイク。裏原系のファッションも変わらず、今日は、SacaiのワンピースにYASUHIRO MIHARAのスニーカーだろうか。実年齢は30代後半のはずだが随分若く見える。
「そういえば、公子さんは?」
ともみとYUMEが5分前に到着したとはいえ、恩着がましく真壁との打ち合わせをセッティングしたはずのもう1人のプロデューサー松本公子の姿がない。
「あ~。なんか急にこれなくなったみたい。理由はよくわかんないけど」
心底興味がなさそうな真壁の口調には、公子への侮蔑が微かに感じられた。昔からそうだった。真壁は才能のない人間にはほんの少しの興味も示せないようで、公子に対しては、大人の事情で仕方なく組まされているだけ、というスタンスを貫いていた。なぜか公子だけが真壁の侮蔑に気が付いていなかったのだけれど。
スタッフの女性がスムージーを運んできた。YUMEは桃とマンゴーのミックス、ともみはケールとトマトだ。到着とともにまるでカフェのような受付で注文が取られたもの。コーヒーやお茶類、アルコールも選べるそうだが、真壁に今日はスムージーがいいよと強引に決められてしまった。
「ともみがYUMEのマネージャーなるんでしょ?でもなんか水商売もやってるんだって?」
「はい、宜しかったら、是非いらしてください」
ともみが、TOUGH COOKIESの名刺を渡すと、素早く表裏をひっくり返しQRコードを読み込んだ。
「孤独な夜に、誰にも言えない秘密を話に行く場所。それがTOUGH COOKIES……
ふーん、歌詞になりそうな店だね」
ポイっと乱暴にほおられた名刺がテーブルの上で滑る。そして真壁はともみの横に並ぶYUMEへと視線を移した。
「YUMEが今アップしてる曲、あれ作るのにどれくらいかかった?」
「あれは…」
「どれくらい?」
真壁に返事を急かされたYUMEが固まり、指先が小さく震えている。その手をぎゅっと握り、ともみが答えた。
「2週間くらいだったよね、YUME」
吐息を漏らして頷いたYUMEに、悪くないねと真壁が自身のスマホを取り出しカレンダーを開いた。
「じゃあさ2週間で新しい曲作って。来月の20日に私がプロデュースに関わってるフェスがある。日本とアメリカ、韓国のアーティストが集まるんだけど、シークレットゲストとして登場させるから」
それはここ数年で有名になり、配信で世界的にも有名になっているフェスだった。YUMEは目を見開いたまま、また固まった。ともみが静かに反論する。
「ご提案をありがとうございます。前向きに検討はさせて頂きたいのですが、まずは契約を結ぶところからです。契約を結ぶ際には弁護士を同席させたいですし、こちらとしましても条件次第では、真壁さんたちとのお話はなかったことにさせて頂きます」
「何それ?…別に、私は絶対にYUMEを再デビューさせたいわけじゃないんだけど?人材に困ってるわけじゃない」
かつて散々聞いた、変わりなら沢山いるのだと匂わせる真壁の脅し方。昔はなぜこの言葉に怯えていたんだろうと、ともみは笑いそうになるのをグッと堪えた。
「そうでしょうか?あなたはYUMEの才能を特別だと思っているし、他者にはとられたくない。でなければそんなに急がないはず」
「…」
「それに…ご提案いただいたフェスですが、実はもうYUMEありきで動かし始めてますよね?それに、真壁さんは、YUMEの曲が死ぬほど欲しい。才能がどうしても必要なはず。しかもいつまでに必要だという期日も迫っていますよね?」
「…」
なぜ知っているのかと真壁は聞きたいのだろうが、流石に言葉にすることは避けたらしい。そんな真壁に、ともみが重ねた。
「西麻布で働いてもう4年になるんです。私にも色んな伝手ができまして、真壁さんのことも調べようと思えば、どんなことでも調べられるんです」
「…どんなこと、でも?」
「私もYUMEも、もうあの頃とは違う。私たちこそ真壁さんじゃなければダメということはないんです。今のYUMEには他のレーベルからのオファーも来てますし、こちらが選べる立場なんです。
そんな私たちと契約をしたいと言うならば、まずはこちらに敬意を払ってください」
▶前回:元恋人同士が、温泉旅館で2人きりに。「これ夢でしょ?」震える彼女を思わず抱き寄せた夜
▶1話目はこちら:「割り切った関係でいい」そう思っていたが、別れ際に寂しくなる27歳女の憂鬱
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