◆「奨学金を生活費として使っていた」母の言い分
――その後、お母様とのご関係はいかがですか。とーこ:大卒後1年経って連絡して以降、2024年まで音信不通でした。私は奨学金を借りて大学を出たので、その返済が卒後1年くらいで始まります。そのとき、母が奨学金を当時の生活費に流していたことがわかったんです。問いただすと、母は「うちがどれだけ大変だったか、あんたもわかってるでしょう」と開き直りました。私はそのときすでに風俗で働いていましたから、「私がいまどんな仕事をしているか知ってる?」と聞きました。母は言葉を濁していましたが、雰囲気から、なんとなくの察しがついているのだろうと思いました。そのとき、私は「母から捨てられたんだ」と思ったんです。
――絶縁状態から、2024年にまた交流が復活したのはなぜでしょうか。
とーこ:自分の生きづらさについて考えていたとき、ADHDの気質があることに気づきました。結果的にASDとADHDがあると診断されました。そのとき頭に浮かんだのは、母のことでした。母の無理解に悩まされたこともあったけど、もしかすると彼女もまた悩んだのではないか――そんなふうに思って電話をしてみたんです。
◆雪解けはかなわなかったが、気づきも
――久しぶりの交流はどのようなものでしたか。とーこ:母も自らの特性に気づいていて、「自己診断だけど、書籍に書いてあることが当てはまるなとは思っていた」と言っていました。やっぱり母も苦労したんだなと思って、親近感がわきました。「いままで大変だった者同士、これから頑張っていこうね」、そんな言葉をかけたと思います。
少し心を許したのもつかの間、母がどうしても兄と私を引き合わせたいのが伝わってきて、昔を思い出しました。母は兄のことをとても気にかけていて、幼少期の私でさえその愛情の差異が理解できるほど露骨でした。私は論客タイプの兄が苦手で、「兄には会いたくない」と母にも伝えていましたが、私の意向を無視した押し付けに辟易しました。
結局、電話で口論になり、母の「昔からあんたの言いよることは何にも理解できないし、理解する気もない」という一言を聞いて、決別しました。
――雪解けが叶わなかったわけですが、その出来事からどのようなことを感じましたか。
とーこ:その瞬間はやはりショックでした。私は根本では、母から認めてもらうことを望んでいたのだと思います。ただそれは無理だったんですね。思えば、私は自分の自己肯定感の立脚するところを、母に委ねていたと思います。これまでの経験で学んだことは、「自分が幸せになることを誰かに委ねてはいけない」ということです。極論、自分で自分を幸せにするしかないんです。それができないのに幸せになろうとするから、誰かに幸せにしてもらおうと思って魔が差して、包丁を突きつけられて結婚してしまう(笑)。母から肯定してもらえなかったなら、他の誰でもなく自分で自分を肯定してあげればいいのだなとようやく気づくに至りました。

