◆前回までのあらすじ
子どもの知育教室で知り合った専業主婦の愛梨とワーママの由里子。「自分の世界が狭すぎる」と嘆く愛梨を由里子は夜の街に誘い出し…。
▶前回:私の生きる世界って狭すぎ…幸せそうに見える麻布十番在住の37歳専業主婦が抱える悩み
働き続けるって決めたのは私。だけど…:由里子(38歳)大手生命保険会社勤務
「それじゃあ。今日もおつかれさま!」
「おつかれ!かんぱ〜い」
麻布十番のイタリアン『B-TRE』でママ友愛梨とテーブルを挟んで向かい合い、シャンパングラスを軽く持ち上げる。
愛梨とは、娘の美桜を通わせている知育教室で知り合った。
毎週土曜日、子どもが授業を受けている間に教室近くのカフェで話す仲だ。でも、夜に会うのは初めてだから、なんだか新鮮でちょっとだけ緊張もする。
私は、大手保険会社に就職し、営業職を経て今は商品開発部でマーケティング業務を担当している。
出産後、3歳になるまで時短勤務にしていたが、今は9時から17時のフルタイム。残業はしないようにしているが、帰宅してから資料作成の続きをしたり、メールの返信をすることも日常茶飯事だ。
それに引き換え、愛梨は専業主婦。正直、ちょっと…いや、かなり羨ましい。
けれど子育てをしながら働くことを選んだのは、私だ。だから、後悔はしていない。そう自分に言い聞かせて、笑顔を作った。
「由里子ちゃん、ここはよく来るの?」
小さな黒板に書かれた本日のおすすめを見ていると、愛梨に聞かれたので「うん。時々ね」と答える。
普段は子どもの話ばかりだが、お酒が入っていることもあり、私たちは夫との出会いや交際期間、出産の時のことなど、プライベートな話題で盛り上がっていた時だった。
「ねぇ由里子ちゃん…こんなこと、話すのもどうかな?と思ったんだけど。聞いてくれる?」
グラスをくるくると回しながら、愛梨がぽつりと話し出すので、私は「どうしたの」と言いながら、少し身を乗り出した。
「この前ね、夫のスマホに見たことのないアプリの通知があったの。たぶんだけど、出会い系っぽいんだよね」
“出会い系”だなんて言葉、久しぶりに聞いたなと思いながら、彼女の顔を見ると笑顔が消えていた。
「通知の内容は見たの?」
私が言うと、愛梨は「ううん。見られなかった」と首を横に振り、グラスに残ったワインを一口飲み干す。
「そっか…それは、モヤモヤするね」
愛梨には悩みなんてないと思っていた。
稼ぎのいい夫に、住まいは麻布十番駅からも近いタワマン。子どもが幼稚園に行っている間は、自由にできて、いつだってネイルが綺麗で、最近は毎日のようにピラティスにも通っているらしい。そんな愛梨が顔を曇らせている。
「そうなの。でも、モヤモヤするだけ。問い詰める勇気もないし、その後の言い合いを想像すると面倒くさいなって。ダメだよね、そんなんじゃ…」
「ううん、わかる。向き合うのってエネルギー使うもんね」
私は素直に愛梨に同意する。その瞬間、少しだけ彼女と分かり合えた気がした。
「そうなの。でも、夫は私のこと見えているのかなぁって、たまに思うんだよね。息子の圭太にしか“可愛い”とか“大好きだよ”って言わないし。って、私も同じなんだけどさ」
愛梨は軽く笑いながら、ピノノワールを追加でオーダーした。
「でもさ、子育てしてる夫婦で、ずっと恋人同士の時の感覚のままラブラブなんです〜!なんて、聞いたことなくない?うちもそうだよ。家族になってしまったんだなぁって。それが、寂しくもあるし、心強くもある。不思議な感覚だよね」
「由里子ちゃんにも、寂しい時があるの?」
「もちろん。あるよ…」
そう。私にもちゃんと悩みがある。しかも、結構重めの悩みだ。
けれど今ここで、その内容を切り出すにはお酒が足りないし、愛梨に引かれる可能性もある。
「そっか、そうだよね」
愛梨が言った後、シェフがタイミングよく赤エビとウニのトンナレッリを出してくれた。
香り高い濃厚なソースに、太めの手打ちパスタがよく絡んでいる。
「ねぇ由里子ちゃん、このパスタすごく美味しい〜!早く食べて!」
「知ってる。美味しいよね」
「あ〜楽しい。由里子ちゃんみたいな友達ができて本当によかったよ。ありがとね」
― 友達…?
愛梨が独り言のように呟いた瞬間、胸の奥がふわりと温かくなり、涙が出そうになった。
彼女が“友達”だと言ってくれたことが、こんなにも嬉しいなんて…。
ワーママになってみて気づいたのだが、ママ友を作る時間がない。
専業主婦をしている愛梨の話を聞くと、幼稚園は保護者会やら行事やらで親同士が集まる機会が多いみたいだし、平日の昼間にママたちが集まってランチやお茶をする時間もある。
だけど、私は美桜を保育園に預けているから、他の保護者とは送り迎えの時に挨拶する程度。仲良くなるチャンスはほとんどないから、ママ友と呼べる友達が実質いなかった。
◆
「せっかくだからもう少し飲みたい」と言ってくれた愛梨を、私はお気に入りのスナックに連れて行った。
ここは数年前、取引先の方に教えてもらった店なのだが、客の年齢層が高く、ママやバイトの女の子たちも気さくで居心地がいいのだ。
「こういうところで飲むの、久しぶり!」と喜ぶ愛梨。
2杯目のハイボールを頼んだところで入り口のドアが開き顔見知りの女性が入ってきた。
「えっ、まりか…?」
そこにいたのは、かつての“飲み友達”、木下まりかだった。切りっぱなしの黒髪のボブ、骨格の整った顔立ちにロエベのロゴが入ったタンクトップから出るヘルシーな長い腕。
「やば、久しぶり! 由里子?」
「うそ、何年ぶり!? 元気だった?」
「元気元気。こんなところで 由里子に会うなんて、びっくりだよ」
私は嬉しさ半分、気まずさ半分で笑う。
彼女と疎遠になったのは、私が美桜を妊娠したことを報告したことがキッカケだったからだ。それを、覚えているのかいないのか、まりかはケロっとしている。
まりかの左手には指輪がない。きっとまだ独身で、職業も以前と同じWebデザイナーなのだろう。けれど、以前の雰囲気とは違う、どこか吹っ切れたような空気をまとっている。
まりかに隣に座るよう促すと、懐かしい匂いがふわりと鼻をかすめた。
私は間に入り、それぞれを紹介する。
愛梨は「はじめまして、愛梨です」と丁寧に挨拶し、まりかも「よろしくね。愛梨さんって、お嬢様なの?めっちゃ可愛い…っていうか肌きれいすぎ。もしかして年下?」と返している。
「かんぱーい」
3人のグラスがカチンと鳴ったとき、どこか不思議なバランスでカウンターの空気が整ったように感じた。お互いの自己紹介をすると、皆1987年生まれだということも判明し、さらに盛り上がる。
「ところで…由里子の娘ちゃんって、何歳になったんだっけ?」
さすがに触れないわけにはいかなかったのだろう。まりかが言った。
「5月で4歳。意思疎通ができるようになって、ようやく楽になってきたかなぁって感じだけど、時々保育園行きたくないって朝ぐずるの。まだまだ大変だよ」
「わぁ、それうちの息子と一緒だ」と愛梨が笑う。
「息子の圭太はこだわりが強くってね、朝は必ずパン派なの。私はもっとお米食べて欲しいんだけど、用意しても食べなくて…」
まりかがいるのに、うっかり愛梨と子育てトークを展開してしまう。案の定、聞き役に徹するしかないまりかのお酒を飲むペースが早くなっていることに気づき、あわててまりかに話を振る。
「まりかは、最近どうなの?」
私は“彼氏いる?”とか“結婚した?”をオブラートに包んで尋ねる。
「今はね、TIME☆ZONEっていうアイドルにハマってるかなぁ。それと、頻繁にうちに泊まりに来る男がいるんだけど、今は彼氏が欲しくなくてさ…」
まりかはミックスナッツに手を伸ばしながら、さらりと言った。
「へぇ。そう…なんだ」
愛梨の方を見ると彼女も目を丸くしている。私たちは、まりかがアイドルにハマっていることに驚いているのではない。潔いほどに、結婚を意識することなく自由に恋愛をしていることにだ。
まりかは結婚に焦っている様子が全くない。その堂々とした表情が清々しくてかっこよく見えた。
もっと話を聞きたいと思った直後、彼女は店のスタッフにデンモクを要求すると、TIME☆ZONEの新曲を気持ちよさそうに歌い始めた。
◆
白金の自宅に着いたのは、24時過ぎ。
シャワーを済ませそっと寝室のドアを開けると、2つ並んだダブルベッドの端っこで美桜は寝息を立てていた。夫の裕太はその反対側でスマホを触っている。
私は酔いに身を任せ、久しぶりに夫の背中に抱きついた。
「なに?」
「…なんでもない」
ほんの少しだけぬくもりを感じたかったのに、その背中は、思ったよりも冷たく感じた。
「由里子、相当酔ってるね。お酒くさいよ」
「…ごめん」
そっと体を離した途端、急に涙が出てきた。
実は、愛梨に打ち明けられなかった悩みというのは、美桜を出産してからずっと夫とレス...ということなのだ。
産後すぐはその気になれず、最初は私が断ってしまったのだが、いつの間にか立場が逆転していた。
― 私は、何を求めているんだろう。
二人目が欲しい…それも嘘じゃない。けれど、それ以上に、まだ夫に女として見られたいし、愛されたいというのが本音だ。
だけど、そこに向き合うのが怖いし、解決方法もわからない。
周囲には「完璧なワーママ」と言われるけれど、実際は家庭内の問題点に目を背け、日々をただこなしているだけだ。
ベッドの隣で眠る美桜の髪をなでながら、私はただ静かに泣いた。
目を閉じると、まりかの何にも縛られていないキラキラとした笑顔が、まぶたの裏で輝いていた。
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まりかの自由気ままな独身生活の裏側

