港区・西麻布で密かにウワサになっているBARがある。
その名も“TOUGH COOKIES(タフクッキーズ)”。
女性客しか入れず、看板もない、アクセス方法も明かされていないナゾ多き店だが、その店にたどり着くことができた女性は、“人生を変えることができる”のだという。
タフクッキーとは、“噛めない程かたいクッキー”から、タフな女性という意味がある。
▶前回:「自分から振ったけど、戻りたい」別れて3ヶ月、男の気持ちが変化したワケ
「私を信じてくれた子を…守れなかった。私の取材のせいで、彼女は…」
その先の言葉を探すように黙ったメグを、ミチはただ待った。仰向けのミチに重なったメグの体が微かに震えている。その背をあやすように撫で続けていると、メグは細い息を吐いてから、小さく言った。
「ミチの側なら眠れる気がして…きちゃった。…ごめん」
掠れた声が、ミチの胸に直接響いた。ミチのTシャツの胸元をすがるように握ったメグの細い指を優しく引きはがしながら、ミチはメグを自分の体から下ろし、寝転んだまま向かい合った。
「…何があったのか、もう少し、話せるか?」
顔を見て話したいと、ほんの少しだけ離れようとしたミチにすり寄り、その胸にすっぽりと埋まったメグは、ミチの質問には答えず、「ああ、ここなら怖くない」と呟いた。
「…ミチ」
「ん?」
「結婚して」
「…は?」
「ミチだけは、どこにも行かないで。ずっと一緒にいるって約束して」
― どこにも行かないで、って…。
結婚を望まず、どこかに行ってしまったのはメグだろう?と、強引に上を向かせて、どんな顔をしているのか確かめたい衝動に駆られたけれど、ミチはそうしなかった。
― 結局、オレはメグに弱い。
思わずこぼれそうになったため息を、メグに気づかれないように飲み込んだ。華奢な背中に腕を回すこともためらわれて、途方に暮れているうちに、ミチにピタリと寄り添った小さな体が、規則正しい寝息を立て始めた。
◆
翌朝9時過ぎ。ミチが目を覚ました時には、もうメグはいなかった。
ミチが寝付いたのは空が明るくなり始めた頃で、その寝不足の頭でぼんやりとリビングに行くと、破られたノートの切れ端が、テーブルの上に置いてあった。
― アイツ、今もまだ手書きで取材してんのかな。
おそらく、メグがいつも持ち歩いている取材メモ用のノートを破ったものだろうと思いながら、ミチはその切れ端を手にとった。
『昨日はありがと!おかげさまで、超久しぶりにぐっすり眠れました。やっぱりミチは私の一番だね。約束があるので先に出ます。あ、合い鍵はもらっとくね』
― もらっとく、って…。
突拍子のなさも、悪びれない言葉も、出会った頃のままのように思える。けれど年月が流れれば、変わらぬ人などいないのだと、ミチは、昨夜のメグに思い知らされた気がした。
今日は月曜日。Sneetは定休日だ。ミチは顔を洗い、歯磨きを済ませると、コーヒーを入れ、ノートパソコンを開く。そしてしばらく調べものをした後、電話をかけた。
「朝からすいません」
電話だというのに頭を下げたミチに、10時過ぎてりゃもう昼だよ、ババアは早起きって決まってんだからさ、と声を荒らげたその人は、西麻布の女帝・光江だった。
「ミチが私に頼み事する日が来るなんてねぇ」
19時ぴったりに、ミチは光江の自宅に呼ばれた。元麻布にある5階建てのマンションの最上階を1フロア使ったペントハウスだ。
とはいっても、築40年を超えたビンテージマンションで、元は200㎡を超える5LDKだった間取りを、光江が1LDKにリノベーションしたため、リビングが50畳以上あるという作りになっている。
なにごとにも無機質を嫌う光江の趣味で、室内はオリエンタル調に統一され、10人は座れそうな大きさのダイニングテーブルは、紫檀(したん)で作られていて漆黒に艶めき、脚部には唐草模様の繊細な彫刻が刻まれている。
部屋の四隅には清朝時代のランタン型スタンドが配され、濃い赤のシェードを透かして漏れる灯りは、まるで和ろうそくの火のように柔らかい。
置かれた家具のほとんどが、上海の骨董街で選び抜かれた一点もので、しかもミチが光江に出会った頃からこのリビングに置かれているものばかりだ。
骨董として価値があるものを恐れずに普段使いし、生活に落とし込む光江のセンスは、著名な骨董商にも一目置かれるほどのものだというが、ミチはこの部屋に入るたびに、魔女の館に来た気分になっているということを、光江には口が裂けても言えない。
「あんた、寝不足だね?白茶(はくちゃ)があるから、それにしようか」
それにしようか、と言われてもお茶を入れるのはミチの役目と決まっているので、ミチは黙ってキッチンへ向かった。
キッチンの奥には、“茶葉専用のセラー”がある。ワインセラーを茶葉用に作り替えたもので、中には、中国茶だけではなく、紅茶、日本茶などがそれぞれ壺や筒に入れられ保管されている。
ミチは成人する前…一時期この家で光江と共に暮らしていた。その頃に様々な家事を仕込まれたが(家事だけではないが)、茶の入れ方もその中のひとつだった。
セラーの扉を開け、ミチは『安吉白茶(あんきつはくちゃ)』と記された筒を取り出す。アミノ酸が豊富で、リラックス効果が高いと言われるこの高級茶葉は、光江が睡眠不足の朝によく飲んでいたお茶だ。
ミチは、春の2週間ほどの間にしか摘めないという希少な茶葉を、無駄にすることがないように茶器に入れ、茶葉を焦がすことのないよう熱すぎないお湯を注ぐ。翡翠色の美しい葉が湯に溶けるように広がり、青さを含んだ甘い香りが立ち上ったところで、まずは光江の分を、そして自分にも注いだ。
「アンタは結構、いい男に育ったはずなんだけどねぇ」
白茶の味に満足した様子の光江が、にやにや、といった笑みをミチに向けた。
― やっぱりもうバレてるな。
西麻布というこの街で起こったことは、どういう仕組みになっているのか、全て光江の耳に入る。それがSneetでのことなら尚更で、光江に隠し事などできないし、ミチにもするつもりはなかった。
「で?メグのことなんだろ。アタシに何をして欲しいわけ?」
ずばりと切りこまれてもミチは驚いたりしない。光江はミチの全てを知る唯一の人で、ミチにも、光江のことを誰より知っているのは自分だという、自負があった。
15歳でこの街に紛れ込んだミチは、酷く荒れた生活をしていたところを光江に拾われた。光江はミチがはじめて心を開いた大人でもある。
「昨日メグが突然店に来たんですけど、その後、オレの家にも…」
急かすことなく白茶を楽しむ光江に、ミチは説明を始めた。
仕事を辞めると言ったメグが、その理由を詳しくは話してくれないこと。何かに怯えて眠れない彼女を助けたくて、自分でもメグについて検索してみたけれど、わかったことはとても少なかったこと。
だから、光江を頼りたいのだと頭を下げた。
「メグの名前でヒットした最新の記事は、半年前のものでした。アフリカの紛争地域にある小さな村を取材していて。
その村では、女の子は幼い頃から働くことが当たり前で、これまで学校に行かせてもらえていなかったらしいんですけど、最近では、男の子と同じように勉強したいと願う子も増えているから、女の子が通える学校を作るプロジェクトが立ち上がっているという記事でした。
メグは、学校を作るために政府に働きかけているNGOのスタッフを取材しながら、何人かの女の子の生活を取材していました。
中でも、リリアちゃんという10歳の女の子には思い入れが強かったようで、9人兄弟の真ん中に生まれた彼女が、どれだけ自分の時間を犠牲にして家族のために働いているか、それがどれほどの重労働なのかを、一か月ほど一緒に過ごして記事にしたみたいなんですけど…」
これです、とミチは光江に携帯を差し出した。その記事のトップページには、リリアがその小さな手でメグのカメラを構えている写真が使われていた。将来はメグみたいに色んな国を飛び回る記者になりたい、というリリアの言葉と共に。
黙って記事を読み終えた光江が、それで?とミチを促す。
「少なくともこの記事を書くまでは、メグは、仕事を続けられていた。ということは…」
「この記事の後に何が起こったのかを、アタシに調べて欲しい、ってことだね」
ミチが頷くと、光江が珍しく大きなため息をついた。そしてギロリとミチを見据えたあと、笑った。
「アタシはアンタにだけは甘い。それをわかってるからこそ、アンタは今まで一度も…アタシに頼み事をしてこなかったんだろ?」
無表情のまま、もう一度頭を下げたミチに、それがまさか女のためとはね、と光江は愉快そうに続けた。
「しかも別れた…というより、アンタを捨てた女じゃないか。あの子の事情はあの子の事情なんだから、ほっとくべきじゃないかと思うけどね」
付き合うことになったとメグを紹介したときから、光江はメグに好感を持っているように見えていたのに、その言葉に棘が含まれた気がして、ミチは意外に思いながら答えた。
「…眠れないというのをほっとけませんよ」
まぁ、それがミチだよねぇ、と光江は、またもため息をついてから続けた。
「まあ調べてみるけどさ。人が眠れなくなるってことは、よっぽどのことが起こったってことだ。しかもメグのいた状況を考えると…日本でぬくぬくと生きてるアタシたちには想像もできない傷を負ったんだろうよ。
で、その傷の原因を知ったとして、アンタはあの子に何がしてやれる?」
― オレが、してやれる、こと…。
「ああでも、もしかしたら、ミチにとってはチャンスなのかい?」
「チャンス?」
「アンタが今も未練がましく忘れられない女を取り戻すチャンス、ってことだよ。恐怖で怯えるあの子をうまいこと慰めて、翼をもぎ取ってしまえば、メグは二度と飛び立てなくなる。
そうすれば、今度こそ…ずーっと一緒に、大切に大切に保護してやりながら、一緒に生きていくっていう道も選べるだろうし」
「…やめてください」
メグの翼はミチにとって、尊くて眩しいものだ。失ってほしくなどない。それは昔も今も、変わらない願いだ。
憮然としたミチを、光江がからかうように笑った。
「ミチにとって、あの子が特別なのはわかる。でも、アタシは時々歯がゆくなるんだよ。アンタがあの子を想うように、あの子もアンタを想ってくれてるんだろうか、ってね。
ミチ、アンタはいつも人のことばかり優先するけど、それじゃいつまでも過去に囚われたまま…というより、過去にできていないから囚われてるんだろうね。
出会いも別れも再会も、実は仕組まれたタイミングだっていうけど、まさに今回のことは——アンタが自分の本心を確かめる、いい機会になるかもしれないよ」
▶前回:「自分から振ったけど、戻りたい」別れて3ヶ月、男の気持ちが変化したワケ
▶1話目はこちら:「割り切った関係でいい」そう思っていたが、別れ際に寂しくなる27歳女の憂鬱
▶NEXT:9月9日 火曜更新予定

