
認知症などの発症で判断能力の低下が疑われると、銀行口座が凍結されてしまうことがあります。母親の介護のため、泣く泣く介護離職を選択した60歳男性の事例をもとに、口座凍結による生活への影響と、口座凍結を防ぐための手立てをみていきましょう。
58歳で「介護離職」を決断した男性
河野忠司さん(仮名・60歳)は2年前、36年勤めた会社を早期退職しました。本来は65歳の定年まで働くつもりでしたが、とある理由から退職を余儀なくされたのです。
一人暮らしの母が認知症に
忠司さんの母・美里さん(仮名・85歳)は、10年前に夫に先立たれて以来、一人暮らしを続けていました。ところが、数年前から物忘れが多くなり、同じことを何度も話す様子が見られたため、忠司さんが付き添って病院を受診。そこで「認知症の初期段階」と診断されたのでした。
忠司さんは当時、5歳年下の妻と、大学生・高校生の2人の子どもとともに隣県に暮らしていました。子どもたちにはまだ教育費がかかり、住宅ローンも残っています。しかし、年々ひどくなる母の症状に心を痛めた忠司さんは、妻と相談のうえ、ひとまず自分だけ実家に戻り、介護を行うことにしました。
当初は県をまたいで通勤していたものの、通勤時間が倍近くかかるうえ、介護と仕事の両立は想像以上に厳しく、心身ともに疲弊。忠司さんは泣く泣く「介護離職」を選択することにしたのです。
幸い、妻が正社員で働いているため、忠司さんが退職しても妻と子どもたちの生活はなんとかなります。しかし、別居する忠司さんの生活費までは捻出できそうにありません。
「まあ大丈夫だよ、母さんの年金があるし。それに父さんの遺産もあるはずだから、いざというときはそこから使わせてもらう」
忠司さんは、心配する妻に明るくそう伝えます。こうして、忠司さんの介護生活が始まりました。
休む間もない在宅介護の日々
美里さんには、週2回、デイサービスを利用してもらっています。しかし、美里さんがいないあいだも、買い出しに掃除にと、忠司さんに休む暇はありません。
とはいえ、自分を育ててくれた母のことを思えば、不思議と不満は湧いてこなかったそうです。
美里さんはすでに自分でお金を管理することが難しくなっていたため、家計管理は忠司さんがキャッシュカードを預かり、年金を引き出す形で行っています。妻が心配していた生活費も、忠司さんの節約の工夫もあって、月13万円でなんとかやり繰りできています。
ただ、美里さんの健康状態を考えると、自宅をバリアフリーにリフォームする必要がありそうでした。そのため、将来的にはまとまったお金が必要になる見込みです。
もっとも忠司さんは、母の定期預金に父から相続した1,500万円があることを確認していたため「いざというときはなんとかなるだろう」と考えていました。
お取り扱いできません…銀行員からの“無慈悲な宣告”
しかし、ある日突然、忠司さんの楽観的な見通しが崩壊しました。
忠司さんが生活費を下ろすため、いつものように美里さんのキャッシュカードを銀行ATMに差し込むと、「このカードは使えません」と表示されたのです。
暗証番号を間違えたのかと思い慎重に入力し直しても、結果は同じです。仕方なく窓口で申し出ると、奥の仕切りのあるコーナーに案内され、座るように勧められました。
「やけに大げさだな」と思っていると担当者が現れ、衝撃のひと言を口にします。
「恐れ入りますが、こちらの口座は凍結されているためお取り扱いできません」
担当者の説明によれば、親族から「美里さんが認知症である」と連絡があったとのこと。
直後は思い当たる節がなく絶望した忠司さんでしたが、ほどなくしてひとりの人間が頭に浮かびました。
口座凍結を招いた妹の“密告”
忠司さんの妹・美和子さん(仮名・55歳)は、実家から車で1時間ほどの場所に、夫と子どもの3人で暮らしています。母の美里さんや兄の忠司さんとは折り合いが悪く、母が認知症になっても介護に一切関わろうとしませんでした。
忠司さんは、そんな妹に介護の相談をしても無駄だと諦めていたため、母の介護は自分ひとりでやり遂げるつもりでいたそうです。
一方、美和子さんは様子を探るようなLINEだけはときどき送ってきており、真面目な忠司さんは正直に現状を伝えていました。
近いうちに実家がリフォームされる予定であることを知り、美和子さんは忠司さんが母のお金を勝手に使い込んでいるのではないかと疑ったのでしょう。「母は認知症だから、お金を引き出せないようにしたほうがいい」と銀行に連絡していたのです。
口座凍結の影響
銀行口座が凍結されることで起こる弊害は、単にお金を引き出せなくなることだけではありません。自動引き落としになっている水道光熱費や通信費、保険料などの支払いも止まってしまう可能性が高く、そうなれば日常生活にさまざまな支障が生じます。
さらに、一度凍結された口座は原則、「成年後見制度」を利用して解除を進めるしか方法がありません。
忠司さんは仕方なく、家庭裁判所に後見開始の申し立てを行うことにしました。しかし、手続きには数ヵ月かかることもあると知り、当面の生活費をどう確保すればよいのかと、頭を抱えます。
結局すぐに打つ手はなく、妻に頭を下げ、子どもたちの教育費として貯めていたお金を一時的に借りることで、なんとか急場をしのぎました。
口座凍結を避けるためにできる「3つ」の対策
銀行が口座を凍結するタイミングは、原則として「口座名義人に認知症の疑いがあると銀行が把握したとき」とされています。その判断基準は銀行側に委ねられており、家族が意図しないタイミングで凍結されてしまうことも少なくありません。
こうした事態を避けるための対策として、下記の3つが挙げられます。
1.家族信託
「家族信託」は、自分の財産を家族などに信託し、管理や運用を任せる制度です。今回のケースでいえば、委託者は母の美里さん、受託者は息子の忠司さん、受益者は美里さんとする契約を結ぶことになります。契約を締結した時点から、忠司さんは美里さんの意向に沿って資産を管理・運用できるようになります。
2.任意後見制度
「任意後見」は、本人の判断能力が低下する前に、あらかじめ自身で後見人を選んでおける制度です。本人の判断能力が低下すると後見が開始され、事前に取り決めた内容に基づいて後見人が資産管理などを行います。今回の場合も、美里さんの判断能力があるうちに忠司さんと任意後見契約を結んでいれば、スムーズに資産管理ができたでしょう。
3.財産管理委任契約
「財産管理委任契約」は、あらかじめ選んだ人に財産管理を委任する制度です。家族信託と同様、契約締結時点から効力が発生し、財産管理を任せることができます。ただし、この契約は原則として本人の判断能力が失われると効力がなくなるため、任意後見制度とセットで利用すると安心です。
こうした事前対策は徐々に認知が広まりつつあるものの、制度が複雑で手続きや費用の負担があることから、踏み切れずに先延ばしになってしまうことも少なくありません。
その点、比較的取り入れやすい方法としては「生前贈与」があります。贈与税のかからない範囲で母の資金を忠司さんの口座へ移しておけば、必要なときに生活費や介護費用を出金できます。
ただし、ほかに相続人がいる場合は使途を明確にしておかないと、のちに相続トラブルに発展する可能性がある点には注意が必要です。
山﨑 裕佳子
FP事務所MIRAI
代表
