
「標準治療はもうありません」という医師の宣告。その言葉をきっかけに、多くの患者家族がネットで「奇跡の治療」を探しはじめます。年金生活を営んでいたトオルさん(仮名/67歳)もその一人でした。妻を救いたい一心で投じた1,600万円の自由診療。その結果、がんの悪化とともに、夫婦の老後の蓄えはほぼすべて失われました。
「どうして妻が…」
首都圏在住のトオルさんは、新卒から勤めていた会社を定年退職し、退職金1,400万円とそれまでの貯蓄、月22万円の年金を主な老後資金として、セカンドライフを送っていました。住宅ローンも完済し、今後に大きな不安はなかったといいます。
状況が変わったのは、妻のカズコさん(仮名)にすい臓がんがみつかってからでした。すい臓がんは「沈黙の臓器」と呼ばれ、みつかったときには進行していることが多い難治性のがんです。カズコさんは抗がん剤や放射線など、主治医が提示する標準治療に取り組みました。
告知を受けた際、トオルさんは激しく動揺しました。「どうしてカズコなんだ。酒もタバコも散々やってきた俺ならまだわかる。真面目に生きてきたあいつがなんでこんな目に遭うんだ……」理不尽な現実にトオルさんは自分を責めました。
当初の治療費は高額療養費制度のおかげで、累計150万円程度。老後資金を大きく取り崩すことなく、希望を繋いでいきます。しかし数年後、がんは無情にも肺や肝臓へと転移。ついに主治医から「非情な通告」を突きつけられる日がやってきます。
「もう治療法はありません」
「残念ながら、いまカズコさんに提供できる治療は、やり尽くしました。今後は在宅医療に切り替え、緩和ケアに専念しましょう」
長年信頼してきた主治医の口から出た「治療終了」の言葉。トオルさん夫妻には、それが「死の宣告」であり、同時に「見捨てられた」という絶望として響きました。カズコはまだ自力で歩ける、食事もできる。それなのに、なぜ死を待つだけなのか。
帰宅後、トオルさんはカズコさんの手を握り、涙を流しました。「俺が先に死ぬと思っていた。一人残されたくない。頼むから死なないでくれ……」まだ諦めたくないという一心で、トオルさんはスマホの検索窓に【すい臓がん 末期 治る】と打ち込みました。
「ステージ4でも諦めない」魅惑のキャッチコピー
藁をも掴む思いでみつけたのが、自宅から車で2時間の距離にあるクリニック。そこのクリニックでは、「先進医療」を提供しているとのこと。
クリニックのサイトには『ステージ4でも諦めない』『副作用の少ない最新医療』という言葉が並んでいました。無料相談に訪れると、医師は「大きな病院はマニュアルどおりのことしかいいません。でも、本当は、まだ可能性があるんです。標準治療の限界を超えた特殊な治療法があります」と説明。提示された費用は、特殊な細胞培養と10回の投与で1,250万円でした。通常の保険診療では不可能な、個別の遺伝子に合わせた精密な治療であるため、これだけの費用がかかるとのこと。
「カズコが死んでしまったら、お金は紙屑と同じだ」トオルさんは決断します。カズコさんの命を救うため、大金を振り込んだのです。
治療開始後、カズコさんは一時的に「体が軽くなった気がする」といい、夫妻は希望を抱きました。しかし、3回目の投与後、容態が急変します。
もとの病院に救急搬送されました。検査したところ、がんは肝臓全体に広がり、悪化していました。主治医はカズコさんが自由診療の免疫療法を受けていたことを知り、「科学的根拠のない自由診療を受けたことで、適切な緩和ケアを受ける機会を損なった可能性があります」と苦い顔で告げられました。自由診療のクリニックに連絡しても、「効果には個人差がある。これ以上の対応はできないし、規約どおり前払いの費用も返金不可」との説明に終始されました。
1,250万円を支払ったあとに残ったのは、大きく減った貯蓄と、「俺が殺したようなものだ」と悔やむトオルさんの姿でした。
がん治療で「老後破産」を招かないための防衛策
トオルさん夫妻の悲劇は、決して他人事ではありません。がんという恐ろしい病を前にしたとき、冷静な判断を保つことは極めて困難です。悲劇を防ぐためには2つのポイントがあります。
1. 「高額=高品質」という医療における誤解
日本には世界でも有数の「国民皆保険制度」があり、厚生労働省が効果と安全性を認めた「標準治療」はすべて保険適用となります。実は「標準」とは「並」という意味ではなく、「現時点で最も効果が高いと証明された最高峰の治療」を指します。
一方で、自由診療の「先進医療」の多くは、まだ効果が証明されていない研究段階のものです。先進医療そのものが悪ではありませんが、高額なのは「効果が高いから」ではなく、「保険が効かないコストをすべて患者が負担しているから」に過ぎません。「高いお金を払えば奇跡が起きる」という金銭感覚のバグが、全財産を失う第一歩となってしまいました。
2. 「セカンドオピニオン」と「がん相談支援センター」の活用
主治医に「もう打つ手がない」といわれたら、ネット検索よりも先に「がん相談支援センター」を頼るべきです。全国の拠点病院に設置されており、治療費の悩みから緩和ケア、公的支援まで、看護師やソーシャルワーカーに無料で相談できる場所です。
トオルさんのように「俺が先に死ぬと思っていた」という想定外の事態は、誰にでも起こり得ます。だからこそ、老後資金は「誰か一人の延命」のためにあるのではなく、「残される側も含めた家族全員が、最後まで尊厳を持って生き抜くため」にあることを忘れてはなりません。
がんは身体を蝕みますが、誤った支出判断は家族の「その後の人生」までも破壊します。大切な人との最期の時間を「金の亡者」に奪われないために。いまある貯蓄をどう守り、どう賢く手放すか。その知恵こそが、本当の「がんへの備え」なのです。
