14歳で「将来子どもは産めない」と宣告され、「なぜ私がこんな病気になったの?」と葛藤する日々から助産師の道へ【体験談】

14歳で「将来子どもは産めない」と宣告され、「なぜ私がこんな病気になったの?」と葛藤する日々から助産師の道へ【体験談】

助産師の岸畑聖月さん(32歳)は、大阪市内にある総合病院の産婦人科に非常勤で勤務しています。また2019年には助産師の知識、経験をいかして働く人を支援する法人向けサービスや、性教育ボードゲームなどのプロダクトを開発・展開する株式会社With Midwifeを設立し、CEOを務めています。
岸畑さんが、助産師の道を志したのは、14歳で婦人科系の病気になったことが最初のきっかけでした。岸畑さんに話を聞きました。
全2回インタビューの1回目です。

14歳で「将来、赤ちゃんは産めないと思ってください」と告げられる

岸畑さんが体調に異変を感じて、婦人科を受診したのは中学2年生のときでした。

――14歳で婦人科系の病気がわかったときのことを教えてください。

岸畑さん(以下敬称略) 中学2年生のときに体調に異変を感じて、母につき添ってもらって近所の婦人科を受診しました。エコー検査などを行った結果、医師から「大きな病院で詳しく診てもらったほうがいい」と言われ、大学病院を紹介されました。

大学病院に診察の予約をして、その受診日を待っていましたが、その間に症状が悪化してしまったのか、授業中におなかがものすごく痛くなったんです。最初は「授業中だし」と思って我慢をしていたんですが、席に座っていられないほど痛みが強くなり、保健室に行きました。
その後、保健室に母も駆けつけてくれて、救急車で病院に行くことに。「大学病院で、婦人科の検査をする予定です」と伝えて、その大学病院に搬送されました。

手術が必要な症状でした。すぐに治療が行われましたが、術後に医師から「将来、赤ちゃんは産めないと思ってください」と告げられました。今、思い出すと、手術の直後ということもあり、記憶も少しあいまいです。また中学生で知識もなかったので、当時の自分がどのぐらい状況を理解していたかも思い出せないのですが、まさかそんなことを言われるとは思わなかったので、大きなショックを受けたことは鮮明に覚えています。

――医師から「将来、赤ちゃんが産めない」と告げられたとき、どのような葛藤があったのでしょうか。

岸畑 突然の入院で術後数週間くらいは入院をしていたと思います。
私は病院のベッドで横になりながら「将来、結婚ができないのかな?」と漠然と考えたり、「友だちは、そんな悩みがないのに・・・。なぜ私だけがこんな病気になったの?」とずっともんもんと考えていました。

それまでは「大人になって結婚したら、自然に子どもができて母親になる」と思っていたので、思い描いていたイメージが崩れていく感じでした。

――病気について、家族とはどのようなことを話しましたか。

岸畑 医師は母と私に、病気のことをきちんと説明してくれたので、両親が改めて病気のことを私に話すことはありませんでした。私を傷つけないように気をつかっていたのだと思います。病気のことは家族の中で話題にならないような感じでした。

私自身は、両親に「心配をかけてごめんね・・・」という思いもありました。
母は入院中の私に毎日つき添ってくれて、術後、私に食事制限があるときには「私もいらない!ダイエットにもなるしいいね!」などと明るく言いながらずっと私に寄り添ってくれていました。

――退院後の受診などについて教えてください。

岸畑 最初のうちは毎月定期検診があり、異常がなかったので、しだいに3カ月に1回の健診になりました。少しずつ期間があきながらも、定期健診は大学を卒業するまで続きました。

――赤ちゃんを産む・産めないということについて、ずっと考え続けていたのでしょうか。

岸畑 病気を経験してから、私だけでなく、私と同じように赤ちゃんが欲しくても産めない人がたくさんいるということを考えるようになりました。

そのころ、入院のときお世話になった主治医の女医さんがとてもかっこよくて「産婦人科医になりたい」と思っていました。自分が産めないならば、小さい命と妊婦さんを守る医師になりたいと思ったんです。三者面談のときには、担任の先生に医学部志望と伝えていました。

ネグレクトで周囲から責められるある母親を目撃して、助産師を志すように

初めは産婦人科医をめざしていた岸畑さんですが、その後、助産師を志すことになります。そのきっかけは、中学3年生のときのある出来事があったと言います。

――中学3年生のときの出来事とは、どのようなものですか。

岸畑 身のまわりでネグレクト(育児放棄)がありました。家に子どもだけを置いて、母親が家をあけたという出来事だったのですが、「母親なのにありえない!」と周囲からは批判の目が向けられていました。しかし、私は子ども心に、自分にはできない妊娠・出産を成しとげたその女性はすごいのに、「なぜ母親だけが責められるんだろう?」「こんなことが起きる前に、母親を守ってあげることはできなかったのかな?」と思ったんです。

ちょうど同じ時期に、中学校で『13歳のハローワーク』という本を読んで、助産師の仕事を知りました。それまでは、産婦人科医になりたいと考えていましたが、ネグレクトの件を見てから、「苦しんでいるママを助けたい」「子どもの尊い命を守りたい」という思いが強くなり、助産師の道を志すようになりました。

そして香川大学医学部看護学科、京都大学大学院医学研究科に進学して、助産師、看護師、保健師の国家資格を取得しました。
卒業後は、大阪市内の総合病院の産婦人科に勤務しました。今でも月2回ほど、その産婦人科で夜勤をしています。

――大人になってからは、子どもを産めない現実と、どのように向き合っているのでしょうか。

岸畑 子どもが授かれないことをずっと考えているわけではないのですが、パートナーには事前に「私は子どもを産むことができない」ということを伝えるようにしています。それでおつき合いに至らないこともありました。そんなときはやっぱりショックですね。でも、子どもが産めないことを理解した上で、パートナーとしておつき合いが進展することももちろんあります。

「子どもを産めないことについて、どのようにして乗り越えたのですか?」と質問をされることもありますが、乗り越えられるものではないし、乗り越えて前に進むようなものでもないと思っています。その事実に自分で寄り添いながら、私の人生を歩んでいく感じです。

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